後悔 2
子供は、夏海が暁彦と名づけた。しかし、名づけたからと言って誰に報告する義務もない。ただ、暁彦が確かに生まれてきたという証しが一つでも欲しいだけ。夜明けを失った自分には、もう夜は明けないかもしれない……そう思いながら。
夏海は退院後、倉本家に戻った。自分がいない間に未来と二人だけで過ごす時間は、帰ってこない暁彦を尚更想起させるだろうと、嫌がる夏海に雅彦が半ばごり押しで夏海の母と決めてしまったことだ。
倉本家で一夜を過ごした夏海は朝、リビングでぼんやり窓の外を見ていた。すると、突然母は夏海に、
「夏海ちゃん、ごめんね」
と謝った。
「お母さん、私何か謝られる様なことでもあったかしら?」
夏海には母に謝られるような覚えが全くなかった。
「同窓会で、結城君に会ったんでしょ?」
ああ、そういうことかと夏海は思った。
「ううん、来てなかったわ。でもね、あいつも結婚したんだって。あいつと仲良かったヤナは、気遣って政略結婚だなんてフォローしてくれたりしたけど、そんなこと今更関係ないじゃない。私にはマーさんだって未来だって……暁彦だっているのに……」
暁彦の名は口にするだけで夏海の目頭は熱くなる。
「お母さんもね、お父さんとお見合いする前に、好きな人がいたのよ」
すると、母は何を思ったのか自分の事を話し始めた。夏海は母のそんな話を聞くのは初めてだった。思えば、母の話をじっくりと聞こうとしたことすらなかった。
「昔の事だしね、あちらも何となくお母さんの事を好きなんじゃないかなとは思ってたんだけど、言えないまま見てるしかなかったわ。その内にね、お父さんとのお話があって、お母さんはお父さんと結婚したの」
夏海はポツリポツリと話す母の顔を見た。遠い眼をしていた。
「結婚してから一年くらいしてからだったかしら、その方が訪ねて来られてね、『実は君が好きだった』って告白されたわ。そして、その人は広島に転勤して行ったの。話はそれでおしまい」
「で、その人とはそれから、ずっと会ってないの?」
夏海は母の眼の遠さが何となく気になって思わずそう聞き返していた。
「人づてに、四~五年してから結核で亡くなったと聞いたわ。今ならそう心配する病気ではないんだけどね、あの頃は違ったから。その人もお母さんに結婚してほしいと言えなかったんでしょうね。あちらの方の出身だったと思うから、お母さんには転勤だって言ってたけど、もしかしたら本当は病気の悪化を感じて故郷に帰られたのかも知れないわ。それを確かめる術はないけれどね……夏海ちゃん、お茶入れようか」
母の言葉に夏海が頷くと、母は立ちあがり、湯呑を水屋から出しながらこう言った。
「お母さんは結果的にお父さんと結婚して良かったと思ってるわ。春乃ちゃんも夏海ちゃんも生まれて、お母さん幸せだったから。
でも、だからと言ってそういう幸せを、お母さん、夏海ちゃんに押しつけすぎたのかもしれないと思ってね。結城君の事にしても武田君の事にしても、もう少し夏海ちゃんの言う事を聞いてあげれば良かったかなって思ったから」
夏海が武田との別れを口にした時、やはり母は心の奥底で自分に謝っていたのかもしれない、夏海はそう思った。そして、時が経てば自分のようにそれも絶対に良い思い出になると言い聞かせていたのかもしれない。
「お母さん、私マーさんと結婚したこと、後悔してないから。
龍太郎は……今だから言うけど、私以外に女がいたのが分ったからだし、康文の事は……正直余計なことをしてくれたって思った時もあったの。でもね、私の中にもどこか彼は小夜ちんから取り上げた男、元は彼女のモノだったって気持ちがあったのは事実なの。だから、マーさんとのお見合いなんかなくたって、いつかは別の理由で崩壊したと思うの、きっと」
「そう、そんな風にいってくれるの? ありがとう」
「ううん、こっちこそありがとう。一番幸せな道を選ばせてくれて」
涙を浮かべて頭を下げる母に、夏海は笑顔でそう返した。
そう、私は母にマーさんを選び取らされたんじゃない。私がマーさんを選び取った。それが今、分ったのだ。それに、どんな人生だっていろんなことがあるじゃない。転ぶことのない人生の方が、少ないよ、たぶん……
母は私が転ぶことを怖れて手を出さずにはいられない、そんな人なのだ。
独身の頃はそれが心底ウザいと思った。しかし、自分も子供を持った今、その気持がやっと解かるようにもなっていた。