不安
「ねぇ、本当にここで良いんですか?」
雅彦が新居に選んだのは、東京都内ではなく、千葉県にあるマンションだった。彼らはこの日、新居に運び入れる家具を決めるため、フロアの細かいサイズを測りに来ていた。
「ここじゃ、試合の時何時に起きないといけないんですか?」
夏海はそう言って心配そうに雅彦を見た。
「あれ? 自分、言いませんでしたか? 結婚を機にチームの指導を降りるの」
「辞めちゃうんですか……何だか寂しいな」
雅彦が辞めると聞いて、夏海がそう返すと雅彦は笑いながらこう言った。
「監督がね『お前今野球どころじゃないだろ。大体な、女連れで指導されても困るんだよ』
って。なんて言うか、実はお払い箱なんです。そのくせ、『秋季大会が終わるまでは頼むぞ』なんて勝手なこと言うんですから」
監督は雅彦の大学時代の野球部の先輩で、雅彦を弟のように可愛がっていた。たぶん、それは雅彦を幸せに導こうという方便なのだろうし、雅彦自身もそれに気づいているのだろう。
「でも、夏海さんが残念がってくれるのは何だか嬉しいですね」
あれから夏海は何度か練習に試合にと足を向けるようになっていて、すこしずつ野球のルールも解かり始めていた。それに、ちょっぴり生意気な小学生たちとどこか同次元な雅彦を見るのも楽しかった。
「これからはあなただけを見ていられます」
雅彦はそう言って夏海を抱き締めると、彼の唇を彼女のそれに押しあてた。夏海と雅彦とのそれが初めての口づけだった。
これから夫婦になろうとしているのだ。彼は夏海の父親になろうというのではないのだから。
当然と言えば当然のはずなのに、夏海は突然の口づけに非常に狼狽えていた。そしてそう遠くない将来には身体も結ばれる。そうしたことも頭では解かっているのに、なんとなく実感として湧かない。
『少しずつ好きになってもらえますか』
愛してくれる人に応える愛もある。そう思って受けたこの結婚だったけれど……一抹の不安を感じながら、夏海は次第に深くなっていく口づけに応じた。