第9話 空き部屋
9話です。
数日後、会社の帰りに電話が鳴った。
見知らぬ番号だったが、
何となく出てしまった。
「もしもし」
「いつもご利用ありがとうございます。
○○タクシーですが」
あの会社の名前だった。
「先日お話しした“迎え”の件で、
少しだけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
どうして自分にかかってきたのか分からなかったが、
聞いてみると、
あの日ロータリーで話した運転手が、
会社に俺のことを伝えていたらしい。
「お住まいが近いと伺ったもので。
もしご迷惑でなければ、
先ほどの団地のこと、少し教えていただければと」
気づくと、俺は「いいですよ」と答えていた。
電話越しの声に従って、
仕事帰りの足を団地のほうへ向ける。
夕方の空が、ゆるく暗くなり始めていた。
ロータリーに着くと、
一台のタクシーが停まっていた。
電話の相手と同じ番号の車だった。
運転手が車から降りてきて頭を下げる。
「急にすみません」
「いえ」
「管理会社にもう一度確認したら、
“昔は子ども連れの家族が住んでいたが、
数年前に退去した”とだけ教えてくれまして。
それ以上のことは個人情報で話せないと」
当たり前の対応だと思った。
運転手は、少し困ったように笑う。
「それで、今日になってまた同じ“迎え”が入ってしまいまして。
三度目なんですが、こちらとしても理由が知りたくて」
団地のインターホンの前に立つ。
指定された部屋番号のボタンを押す。
しばらく待っても、反応はない。
聞こえるのは、遠くで鳴くテレビの音と、
どこかの部屋で鳴る食器の音だけ。
下のポストの列を見ると、
問題の部屋番号の投入口だけ、
シールで塞がれていた。
上から白いテープが貼られ、
何度か書き換えたような跡がある。
最初の名前は剥がされ、
上に別の文字が重ねられ、
それもまた剥がされた痕跡。
今は何も書かれていない。
「……誰も、いないですね」
運転手が言う。
「ええ」
「会社のシステムでは、まだ“迎え先”として残っているんですが」
俺は、ポストのテープに指を伸ばしかけて、やめた。
剥がして中を見る権利は、
どこにもない。
代わりに、テープの端に小さな膨らみがあることだけに気づいた。
そこに、何か薄い紙が一枚、押し込まれているように見えた。
風が吹いて、団地の外廊下に吊るされた洗濯物が揺れた。
子ども服は一枚もなかった。
「古いデータを消し忘れて、そのまま……
ってことなんでしょうね」
運転手は自分で言いながら、あまり納得していない顔をした。
俺も同じだった。
迎えに行くはずだった相手が、
もうここにはいない。
それでも「迎え」のメモだけが残り、
何度も“呼び出し”される。
タクシー会社のシステムの中で、
何かが時間から取り残されている。
俺の家でも、
似たような“消し忘れ”があったのかもしれない。
アルバムの抜けたページ。
玄関の靴箱の、空いた一段。
兄の部屋の、子ども用の布団だけが消えたベッド。
形だけは三人家族に整えられても、
迎え損ねた記憶のほうは、
どこかに残り続ける。
それが、
ときどきこうして別の形で顔を出すのかもしれない。
運転手は「今日はありがとうございました」と言って、
再び車に戻っていった。
タクシーが発車したあと、
団地のポストの前に、一枚の紙片が落ちていることに気づいた。
角に、細い透明のフィルム。
拾い上げると、
紙の真ん中に鉛筆で書かれた文字の跡があった。
「○○号室」と、かろうじて読める。
その上に、強く塗りつぶされた名前のような線。
「こ」で始まる形が、一瞬だけ見えた。
慌てて目をそらす。
指先のざらつきだけが、残った。
誤字脱字はお許しください。




