第8話 インターホンの前
8話です
週末、買い物帰りに、
その団地の前を通る用事ができた。
スーパーの袋を提げて歩いていると、
タクシーが一台、団地のロータリーに入っていくのが見えた。
会社のマークは、あの車と同じだ。
何気なく足を止める。
運転手が車を降り、
エントランスのインターホンに近づいていく。
紙切れを片手に持っている。
「……まだ、やってるんだ」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からない。
少し離れたところから見ていると、
運転手は何度かボタンを押し、
しばらく待ってから、首をかしげた。
インターホンのスピーカーからは、
何も聞こえない。
俺が見ていることに気づかないまま、
運転手は管理人室のほうを覗き、
誰もいないことを確認して、タクシーに戻った。
発車しようとしたとき、
運転席の窓が少し開いた。
「あの、この団地の方ですか」
声をかけられた。
「いえ、違います。
通りがかっただけで」
そう答えると、運転手は苦笑した。
「また“出てこない”お客さんでしてね。
これで三回目です」
「同じメモで?」
「ええ。
メモは古いのに、
システム上は“今日”の迎車として上がってくるんです」
運転手は紙切れを見せた。
そこには、あの「迎え 21:30」が印刷され、
下に手書きで部屋番号が追記されている。
その部屋番号を見た瞬間、
胸がざわついた。
見覚えがあった。
どこで見たのか、すぐには思い出せない数字の並び。
それでも、指が勝手に動くくらいには馴染みがある。
「前に友だちがいたかもしれません。
でも、もうずいぶん前で」
「そうですか」
運転手はそれ以上は聞かなかった。
代わりに、ぼそりと付け加える。
「この部屋、
管理会社に確認したら“もうだれも住んでいない”って言うんです。
でも、メモだけは消えてくれなくて」
風が吹いて、団地の階段に貼られたチラシがめくれた。
子ども向けのイベント告知らしい色あせたポスター。
隅が剥がれかけている。
かつて、ここにも子どもの声があったのだろう。
父に連れられて、この団地に来た記憶がかすかにある。
エレベーターのない階段を上がり、
玄関先で名前を呼んだ夜。
誰を迎えに行ったのか。
その人は、ちゃんと出てきたのか。
想像と記憶の境界が、うまく引けない。
運転手は「失礼しました」と言って窓を閉め、
タクシーは去っていった。
団地のインターホンは、
何事もなかったように沈黙している。
ポケットの中で、
スーパーのレシートとは違う紙の感触が指に触れた。
取り出してみると、
小さく折りたたまれたメモの切れ端が一枚。
端にだけ、細い透明のフィルム。
広げると、
「迎え」という字の下半分だけが残っていた。
上の部分は、きれいに切り取られていた。
いつ拾ったのか、
自分で持ち歩くつもりだったのか。
どちらも、よく分からなかった。
誤字脱字はお許しください




