第50話 切り捨てる側
50話です。
昼休み、
保健室の前に
人が集まっていた。
多くはない。
三人ほど。
声は、
低い。
中にいるのは、
あの子だった。
転んだ子。
昨日まで、
席にいた子。
今日は、
いない子。
養護教諭が
廊下に出てきて、
一人の先生と
短く話す。
「……保護者が
納得していなくて」
納得。
その言葉が
聞こえた瞬間、
胸が
少しだけ
締まる。
担任も
そこにいた。
俺を見る。
呼ばれていない。
だが、
目が合う。
それだけで、
分かる。
必要とされている。
保健室の中は、
静かだった。
ベッド。
カーテン。
消毒の匂い。
あの子は、
座っている。
顔色は、
悪くない。
「どうした?」
担任が聞く。
「家で、
いろいろ
言われて……」
言われて。
「本当は、
押されたんじゃ
ないかって」
その言葉で、
空気が
変わる。
押された。
それは、
書けてしまう言葉だ。
書かれたら、
棚は
足りなくなる。
養護教諭が
言う。
「誰か、
そういうこと
言ったの?」
あの子は、
首を振る。
「……分からない」
分からない。
それは、
一番
危ない。
分からないことは、
誰かが
決める。
担任が、
俺を見る。
「君は、
どう見てた?」
質問の形をしているが、
答えは
決まっている。
俺は、
一歩
前に出た。
「押してません」
即答だった。
「椅子に
引っかかって、
滑っただけです」
今までで
一番
はっきりした声だった。
養護教諭は、
何も言わない。
担任は、
深く
うなずく。
「そうだな」
それで、
決まる。
あの子が
こちらを見る。
目が、
揺れる。
助けを
求めているのか、
確認しているのか、
分からない。
俺は、
目を逸らさなかった。
逸らさないことで、
意味が
固定される。
「じゃあ、
この件は
これ以上
広げない」
広げない。
担任が
そう言って、
終わらせる。
あの子は、
何も言わない。
言えない。
その沈黙が、
処理だ。
保健室を出るとき、
養護教諭が
小さく言った。
「ありがとう」
誰に向けた
言葉かは、
言わない。
放課後、
あの子は
早退した。
そのまま、
戻ってこなかった。
翌日、
担任は言った。
「しばらく、
家庭の事情で
休むそうだ」
家庭の事情。
便利な
言葉だ。
席は、
空かなかった。
転入生の机は、
そのままだ。
誰も、
困らない。
家に帰ると、
母が
夕飯を作っていた。
「学校、
どうだった?」
「普通」
その一言が、
一番
近い。
母は、
包丁を止めずに
言った。
「人ってね、
全員を
守れないのよ」
唐突だった。
「守れる形を
選ぶしか
ない」
その言葉が、
胸に
落ちる。
「……そうだね」
俺は、
そう答えた。
否定も、
質問も
しない。
母は、
それ以上
言わない。
だが、
分かっている。
俺が
何をしたか。
夜、
自分の部屋で
引き出しを開ける。
透明な袋。
今日、
初めて
入れなかったものがある。
あの子の
目。
それは、
紙にならない。
紙にならないものは、
棚に
置けない。
だから、
切り捨てた。
布団に入る。
天井を見る。
今日、
俺は
誰かを
守らなかった。
守らなかったことで、
他を
守った。
その選び方を、
俺は
知っている。
母と
同じだ。
電気を消す。
棚の一番下。
兄の件の
隣に、
今日の出来事が
静かに
並ぶ。
これで、
この形は
完成した。
もう、
戻らない。
誤字脱字はお許しください。




