第24話 止めなかった理由
24話です
父は、昔から物音に敏感な人だった。
夜中にドアが開く音。
階段を踏み外す音。
隣の家のシャッターが閉まる音。
どんなに小さな音でも、
必ず一度は目を覚ます。
それは、
心配性というより、
「確認する癖」に近い。
だから俺は知っている。
あの夜、
母が兄の部屋に入った音も、
ゴミ袋を引きずる音も、
父が気づいていなかったはずがない。
朝、
父は新聞を読んでいた。
ページをめくる音が、
いつもより遅い。
「昨日、
ゴミ出した?」
俺が聞くと、
父は新聞から目を離さずに答えた。
「ああ。
母さんがまとめてたな」
まとめてた。
その言い方は、
内容に触れないための
距離の取り方だ。
「兄の部屋、
片づけてた」
俺が言うと、
父の手が止まった。
新聞の角が、
少しだけ折れる。
「……必要だったんだろ」
必要。
その言葉は、
父の中で
結論になっている。
「迎えのメモ、
見た?」
俺は、
一歩踏み込んだ。
父は、
ゆっくりと新聞を畳んだ。
テーブルの上に置き、
俺を見る。
その目は、
怒っていない。
だが、
避けてもいない。
「見た」
即答だった。
「いつ?」
「だいぶ前だ」
だいぶ前。
それは、
事件が起きる前か、
起きた後か。
どちらとも取れる。
「……止めなかったの?」
言った瞬間、
胸が苦しくなる。
父は、
すぐには答えなかった。
少しだけ、
視線を落とす。
それから、
静かに言った。
「止める理由がなかった」
その言葉は、
思っていたよりも
冷静だった。
「母さんは、
間違ったことを
していない」
間違っていない。
父の中では、
すでに整理が終わっている。
「兄の外出は、
この家にとって
良くなかった」
良くなかった。
それは、
事実かもしれない。
だが、
事実であることと、
消していいことは
同じではない。
「迎えが来なかったのは?」
俺が聞く。
父は、
少し間を置いて答えた。
「分からない」
分からない、
という言葉を
選んだ。
知らない、ではない。
分からない。
「だが」
父は、
続ける。
「迎えが来なかったことで、
問題が表に出た」
問題。
「だから、
片づけた」
片づけた。
父は、
母と同じ言葉を使った。
だが、
意味は少し違う。
母は、
物を片づけた。
父は、
判断を片づけた。
「もし、
あのままにしていたら」
父は、
少しだけ声を落とした。
「警察か、
学校か、
病院か」
どれも、
この家の外だ。
「どこかが、
この家に
踏み込んできた」
父は、
それを避けた。
「それが、
父親の役目だ」
その言葉に、
迷いはなかった。
俺は、
何も言えなかった。
正論だからではない。
理解できてしまうからだ。
父は、
守った。
家を。
母を。
俺を。
そして、
守るために、
兄を切り離した。
「……俺は?」
俺が聞く。
「俺は、
どうすればよかった?」
父は、
少しだけ考えた。
「何もしなくていい」
それは、
優しさのように聞こえる。
だが、
同時に
残酷でもある。
「何もしないで、
忘れる」
父は、
はっきり言った。
「それが、
一番楽だ」
楽。
この家で、
最も重要な基準だ。
「覚えていると、
人は壊れる」
父は、
自分に言い聞かせるように
続けた。
「だから、
記憶も片づける」
病院の記録。
名簿。
名札。
すべて、
同じ発想だ。
俺は、
その瞬間、
はっきり理解した。
父は、
最初から
すべてを知っていた。
兄が、
迎えを待っていたこと。
迎えが、
来なかったこと。
母が、
片づけに入ったこと。
それでも、
止めなかった。
止めないという選択を、
冷静に選んだ。
「……母さんは、
どこまで」
俺が聞くと、
父は首を振った。
「それ以上は、
聞かなくていい」
その言葉で、
話は終わる。
父は、
立ち上がり、
仕事の準備を始めた。
それ以上、
この話を
続けるつもりはない。
父の役割は、
終わったのだ。
一人残された俺は、
テーブルに残る
新聞の折れ目を見つめた。
そこに、
小さなシワが残っている。
完全には、
戻らない。
それが、
父の選択の痕だ。
部屋に戻り、
欠片を並べる。
迎えの時間。
名札。
バッグ。
消された同伴者欄。
そこに、
父の言葉が重なる。
「何もしなくていい」
それは、
命令でもあり、
許可でもある。
俺は、
その命令に
従ってきた。
だから、
ここにいる。
だが、
従い続ける限り、
俺は
兄の側には行けない。
この章の終わりが、
近づいている。
残るのは、
最後の一話。
弟である俺が、
初めて
「何もしない」以外の選択をする。
それは、
小さな行動だ。
だが、
この家にとっては
決定的な一歩になる。
誤字脱字はお許しください。




