第20話 訂正された家族
20話です
病院からの連絡が途絶えたことで、
この件は終わったことになった。
身元不明の男は、身元が判明した。
仮登録は抹消された。
誤って紐づいた情報も、切り離された。
病院の言葉を使えば、
「最終処理は完了している」。
それ以上、確認する必要はない。
俺は、そういう空気の中に戻された。
家に帰ると、
母が洗濯物を畳んでいた。
テレビはついているが、
音量は小さい。
内容が頭に入ってこない番組だ。
「もう大丈夫だったの?」
母は、
こちらを見ずに聞いた。
「うん。
全部、訂正された」
その言葉を選んだのは、
無意識だった。
訂正。
病院で何度も聞いた言葉。
便利で、角がない。
母は、
一瞬だけ手を止めた。
「……そう」
それから、
何事もなかったように、
洗濯物を畳み続ける。
父は、
少し遅れて帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
短いやり取り。
食事の支度が整い、
三人でテーブルにつく。
兄の席は、
空いている。
だが、
それを空席だと意識することはない。
最初から、
そういう配置になっている。
父が言った。
「病院から、
もう電話はないんだな」
「ない」
「なら、終わりだ」
終わり。
父は、
それ以上話さない。
話題は天気に変わり、
仕事の話になり、
食後の予定の話になる。
会話は、
よく整っている。
その整い方が、
どこか作業的だ。
俺は、
ふと口を開いた。
「……昔の救急のときさ」
父と母の動きが、
同時に止まった。
止まったのは、
ほんの一瞬だ。
だが、
二人とも同じタイミングだった。
「俺、
誰と行ったんだっけ」
聞いてから、
後悔した。
この質問は、
この家では必要ない。
母が、
先に答えた。
「お父さんよ」
即答だった。
父も、
同じように頷く。
「夜中だったしな。
母さんは家に残った」
話が、
すでに完成している。
「兄は?」
俺は、
あえて聞いた。
母は、
少し考えるふりをした。
「寝てたんじゃない?」
その言い方は、
第19話で聞いたものと同じだった。
同じ言葉。
同じ調子。
同じ間。
用意された答えだ。
父が、
その会話を切る。
「今さら、
そんなこと気にしても仕方ないだろ」
それで、
話は終わる。
俺は、
それ以上聞かなかった。
聞かないことが、
この家で生きるための
正しい選択だと知っている。
食事が終わり、
それぞれの場所へ戻る。
俺は部屋に入り、
引き出しを開けた。
透明な欠片を、
一つずつ並べる。
夜行バス。
名札。
病院の紙。
形は違うが、
縁の歪みが似ている。
すべて、
「何かがあった場所」から
切り取られたものだ。
欠片を見ていると、
ふと、
ある考えが浮かんだ。
俺は、
何も知らないわけじゃない。
ただ、
知らないと言わされている。
それだけだ。
知らない、
という役割を
与えられている。
救急の夜。
同伴者欄。
消された名前。
そこに、
俺自身が関わっていないはずがない。
だが、
その関わり方は、
「被害者」でも「加害者」でもない。
記憶を引き受けない役。
それが、
俺の役割だ。
その役割を果たすために、
何度も同じ説明を聞かされ、
何度も同じ答えを言わされ、
それを自分の記憶として
定着させてきた。
父と母は、
嘘をついた。
だが、
俺も嘘を言っている。
「父と行った」
「兄は寝ていた」
それを、
自分の言葉で言える。
言えるということは、
信じているということだ。
信じているなら、
それはもう
“事実”として扱われる。
病院が、
記録を訂正したように。
家族が、
関係を訂正したように。
俺は、
その訂正を
受け入れてきた。
受け入れることで、
家族の一部でいられた。
欠片を、
元の引き出しに戻す。
戻した瞬間、
部屋がいつも通りになる。
何も起きていない部屋。
それが、
この章の結論だ。
夜、
電気を消す前に、
もう一度考える。
もし、
あの夜、
兄が一緒に病院へ行っていたら。
もし、
その事実が残っていたら。
この家は、
今の形を保てただろうか。
答えは、
考えるまでもない。
だから、
消された。
消すために、
誰かが動いた。
母か。
父か。
それとも、
兄自身か。
まだ、
分からない。
だが、
一つだけ確かなことがある。
俺は、
何も知らない弟ではない。
ただ、
何も知らないと
信じさせられた弟だ。
そして、
その役割を
自分から降りようとした瞬間、
次の章が始まる。
電気を消す。
暗闇の中で、
引き出しの中の欠片が
静かに音を立てた気がした。
それは、
この章が終わった合図だった。
そして同時に、
本当に触れてはいけない部分に
近づいたという合図でもあった。
誤字脱字はお許しください。




