第17話 受付の名前
17話です
病院の受付は、昼になると独特の静けさを帯びる。
人は多い。
待合の椅子も埋まっている。
それでも、空気は落ち着いている。
理由は単純だ。
ここでは、ほとんどのことが「順番」で処理される。
名前、番号、受付時刻。
すべてが整列している。
整列していれば、
多少の不調や不安は、脇に追いやれる。
俺は番号札を握ったまま、
救急受付のほうを見ていた。
昨夜の男は、もうそこにはいない。
担架もない。
救急隊員の姿もない。
残っているのは、
端末と、書類と、
それを扱う人間だけだ。
受付のカウンターで、
事務員が端末を操作している。
画面は見えない。
だが、操作のリズムで分かる。
入力。
確認。
訂正。
その繰り返し。
俺の順番が近づいた頃、
救急受付のほうで、
小さなやり取りが始まった。
「すみません、こちら」
若い看護師が、
事務員に声をかけている。
「仮登録が入っているんですが……」
事務員が、端末を操作し直す。
画面を見つめ、
指を止めた。
「……これ、同姓同名ですね」
看護師が頷く。
「連絡先の一部が一致して、
候補が出たみたいです」
候補。
その言葉が、
夜行バスの名簿を思い出させる。
数が合わないとき、
候補は余る。
事務員は、
もう一度画面を確認し、
淡々と言った。
「仮登録ですね。
本登録はまだです」
それは、
問題が起きていないという意味だ。
問題は、
起きてから処理するものだ。
看護師は、
少し迷うようにしてから、
俺のほうを一度だけ見た。
視線が合ったわけではない。
だが、
見られたと感じた。
「ご家族の方、
念のためお伺いしたんですが……」
その言葉は、
俺に向けられていない。
空間に向けて、
投げられた確認だ。
誰も答えない。
それでいい。
ここでは、
答えがないこと自体が、
一つの回答になる。
事務員が、
画面を切り替えた。
「訂正入れますね」
キーボードを打つ音が、
乾いて響く。
訂正。
その一語で、
話は終わる。
看護師は頷き、
紙を一枚受け取って戻っていった。
紙の上に、
ちらりと見えた文字。
名字だけだった。
俺の家と、同じ。
偶然だ。
そう言い聞かせるには、
少しだけ、回数が多い。
番号が呼ばれ、
俺は窓口へ向かう。
薬を受け取り、
説明を聞き、
会計を済ませる。
すべてが、
正しく処理されていく。
だが、
帰り際、
俺は再び救急受付の前を通った。
カウンターの端に、
一枚の紙が置かれている。
仮登録の控えだ。
本来なら、
すぐに破棄されるはずのもの。
だが、
その紙はまだそこにあった。
名前の欄。
上から線が引かれ、
その下に、別の名前が書かれている。
上の名前は、
消されている。
完全には消えていない。
紙を強くこすった跡が残り、
文字の輪郭だけが浮いている。
読めない。
だが、
「消された」という事実だけが、
はっきり分かる。
同伴者欄も、
同じだ。
そこに、
誰かの名前があった痕跡。
消した理由は、
書かれていない。
理由を書く欄が、
そもそも存在しない。
それが、
病院という場所だ。
理由は、
手続きの外に追い出される。
事務員が紙に気づき、
引き出しにしまった。
引き出しが閉まる音が、
やけに大きく聞こえた。
俺は病院を出る。
外の空気は、
中よりも軽い。
重たいのは、
さっき見た紙のほうだ。
「訂正」という言葉で、
消されたもの。
それは、
間違いだったのか。
それとも、
最初から不要だったのか。
歩きながら、
ポケットに手を入れる。
透明な欠片が、
指に触れた。
数が増えている。
一つずつ、
確実に。
それらは、
名前を持たない。
だが、
名前があった痕跡だけは、
必ず残る。
家の中にも、
そういうものがある。
消された名前。
書き直された関係。
訂正された記憶。
それらは、
間違いを正した結果なのか。
それとも、
正しさを作るために、
間違いにされたのか。
病院の自動ドアが閉まり、
背後で、ガラス越しに反射した自分の姿が消える。
俺は、
自分の名前を、
一度だけ頭の中でなぞった。
消されていないことを、
確認するように。
そして歩き出す。
まだ、
この章の事件は終わっていない。
だが、
“訂正された”という事実だけが、
静かに積み上がっていく。
誤字脱字はお許しください。




