第16話 搬送
16話です
サイレンの音は、近づくときより、遠ざかるときのほうが耳に残る。
交差点の手前で、救急車が止まっていた。
赤色灯が、濡れたアスファルトに反射している。
夜の色を、無理やり上書きする光だ。
人だかりはできていない。
数人が、少し距離を取って立っているだけだった。
誰も近づかず、誰も背を向けない。
倒れているのは、若い男だった。
年齢は分からない。
髪が濡れて、額に張りついている。
服は整っているが、どこか借り物のように見えた。
救急隊員が、淡々と作業している。
「意識ありますか」
男は、うっすら目を開けた。
だが、焦点は合っていない。
「名前、言えますか」
返事はない。
男の口がわずかに動くが、音にならない。
隊員の一人が、ポケットを確認する。
財布はない。
スマートフォンもない。
代わりに、小さく折りたたまれた紙が出てきた。
雨で滲み、
インクが薄く広がっている。
それでも、
一行だけ読めた。
「迎え 21:30」
下に、数字が並んでいる。
住所か、部屋番号のような形。
だが、途中の二桁が黒く塗りつぶされていた。
塗り方が雑ではない。
上から強く、何度もなぞってある。
隊員はその紙を、
透明な袋に入れた。
「連絡先、これだけか」
「他はありません」
簡単なやり取り。
深読みはしない。
男が、小さく声を出した。
「……こ……」
隊員が顔を近づける。
「もう一度、言えますか」
男の唇が動く。
だが、続きは出てこない。
救急車のドアが閉まり、
担架が押し込まれる。
その様子を、
俺は歩道の端から見ていた。
通報したわけでもない。
関係者でもない。
ただ、帰宅途中で足を止めただけだ。
それでも、
ポケットの中の欠片が、
やけに重く感じられた。
救急車が走り出す。
赤色灯が遠ざかり、
交差点に残るのは、
何もなかったはずの夜だ。
だが、
何かが確かに「運ばれた」。
それだけが、
空気に残っている。
翌日、
俺は近くの病院にいた。
用事は、処方箋の受け取りだった。
だが、入口に停まっている救急車を見た瞬間、
足が止まった。
昨日と、同じ型。
偶然だ。
この辺りでは、珍しくない。
それでも、
胸の奥が少しだけ、沈む。
受付のロビーは明るい。
白い床。
白い壁。
夜の出来事が入り込む余地はない。
番号札を取り、
椅子に座る。
その視線の先、
救急受付で、隊員が書類を渡している。
看護師が端末を操作し、
リストバンドを印刷する。
白い紙のバンド。
名前欄は空白。
代わりに、
「身元不明」と印字されている。
看護師が、隊員に聞く。
「連絡先、ありませんか」
「このメモだけです」
透明な袋が差し出される。
濡れた紙。
黒く塗りつぶされた数字。
看護師は、
それを一度見てから、
端末の画面に視線を戻した。
眉が、ほんのわずかに動く。
「……この番号」
独り言のように言って、
すぐに口を閉じる。
別の職員を呼び、
小声で何かを伝える。
二人は端末を挟んで、
画面を見つめる。
数秒後、
看護師がプリンターから別の紙を取り出した。
リストバンドではない。
確認用の用紙だ。
そこに書かれている名字が、
ちらりと見えた。
俺の家と、同じだった。
偶然だ。
日本には、同じ名字がいくらでもある。
そう思おうとしたが、
視線が離れなかった。
看護師が、周囲に向けて声を出す。
「○○様のご家族の方、いらっしゃいますか」
ロビーが、一瞬だけ静かになる。
誰も立ち上がらない。
誰も反応しない。
当然だ。
俺は、何も知らない。
看護師は、
その反応を待つこともなく、
紙を伏せた。
「……失礼しました」
それで終わりだ。
救急受付では、
その後も淡々と処理が進む。
身元不明。
仮登録。
照合。
訂正。
言葉は違っても、
やっていることは同じだ。
名簿。
空席。
忘れ物。
今度は、
人間が対象になっただけ。
俺の番号が呼ばれ、
薬を受け取り、
会計を済ませる。
帰り際、
救急受付の横を通ると、
カウンターの端に例の透明袋が置かれていた。
中の紙は、
ほとんど乾いている。
「迎え 21:30」
その文字だけが、
やけにくっきり残っていた。
誰が迎えに来る予定だったのか。
なぜ来なかったのか。
その答えを、
ここでは誰も探さない。
探すより、
処理するほうが早い。
外に出ると、
昼の光が強かった。
救急車はもういない。
夜の出来事は、完全に上書きされている。
俺は歩き出した。
ポケットの中で、
透明な欠片が、
また一つ増えているのを感じながら。
拾った覚えはない。
だが、
確実に、増えている。
それが、
何の一部なのか。
まだ、
考えないことにした。
誤字脱字はお許しください。




