第14話 置き去り
14話です
夜行バスの朝は、明るくなる順番が逆だ。
外が先に白み、
車内はそれに少し遅れて、ゆっくり起きる。
カーテンの隙間から薄い光が入り、
黒だった窓ガラスが灰色になり、
乗客の輪郭がようやく戻ってくる。
誰も一斉に起きない。
起きる人と起きない人が混じり合い、
その混ざり方が、朝というより「終わり」に近い。
運転手の声がマイク越しに入った。
「まもなく到着いたします。
お手洗いをご利用の方は、この停車中にお願いします。
車内の整理をお願いします」
いつもの文句だ。
しかしこの便では、昨夜から「整理」という言葉だけが重く聞こえる。
整理する。
数を揃える。
席を戻す。
余分なものを消す。
寝ぼけた頭のまま、
俺は空席のほうを見た。
そこは、まだ空いている。
座席の形は変わらない。
夜に見た「違和感」も、そのまま残っている。
ただし、朝になると
空席はもう“怖い”というより“見苦しい”ものに近づく。
夜は誤魔化せるが、朝は誤魔化せない。
明るさは、言い訳を許さない。
隣の席の男が上体を起こし、伸びをした。
首を鳴らし、スマホを確認し、カーテンを少し開ける。
その動作の中に、空席は入っていない。
誰も空席を話題にしない。
これはもう「処理済み」のものだからだ。
バスが減速し、
一般道に降りる。
窓の外に、コンビニやガソリンスタンドが見える。
朝の生活が、いつも通り動いている。
「終点です」
運転手の声が入った。
乗客が少しずつ立ち上がる。
座席の下から荷物を引きずり出し、
棚からバッグを降ろし、
足元のスリッパを靴に戻す。
人の動きが増えるほど、
空席の存在がはっきりしてくる。
人は通路に出る。
だが、空席の前だけは流れが詰まらない。
誰も、その席を使わない。
誰も、その席の下に足を入れない。
係員が車内に入ってきた。
昨夜と同じ制服。
ただし今は、クリップボードを持っていない。
代わりに、手袋をしている。
「お忘れ物のないようにお願いします」
声は丁寧だが、
その丁寧さは「終わらせるため」のものだ。
係員は通路の後ろから前へ、座席を目で追っていく。
落とし物がないか。
座席にゴミが残っていないか。
そういう確認。
空席に差しかかったところで、
係員の動きがわずかに止まった。
しゃがむ。
座席の下を覗く。
手袋の手が伸びる。
何かをつまみ上げた。
黒い布。
小さなバッグだった。
俺は、昨夜見た名札を思い出した。
塗りつぶされた文字。
あの紙片が、このバッグに繋がっている。
係員はバッグを持ち上げ、重さを確かめる。
軽い。
軽すぎる。
それが「置き去り」に見える理由だった。
忘れ物は、普通もっと重い。
生活が詰まっているから。
これは、生活を入れる前の軽さだ。
係員が運転手に合図する。
「こちら、忘れ物です」
運転手が近づき、バッグを受け取った。
二人とも、声の調子を変えない。
感情を持ち込まない。
そういう決まりがある。
運転手は、バッグの口を少し開け、
中身を確認した。
「……水筒、ハンカチ」
声が低い。
周りに聞こえないようにしている。
「靴下。……名札」
名札、という単語だけが、俺の耳に引っかかった。
運転手は名札を引き抜いた。
紙製の小さな札。
角が丸い。
透明なフィルムが端に貼られている。
名前欄のところが、黒く塗りつぶされていた。
消した跡ではない。
塗った跡だ。
最初から、読めないようにしてある。
係員が、車内に向けて声をかける。
「こちらのバッグ、お心当たりの方いらっしゃいますか」
返事はない。
係員はもう一度、同じ質問を繰り返した。
声の調子も、言葉も、同じ。
それでも、返事はない。
誰も名乗り出ないというより、
誰も「迷わない」。
自分の荷物でないことを、全員が確信している。
確信しているから、名乗り出ない。
確信しているから、周りを見ない。
係員は、淡々と決める。
「ではこちら、事務所でお預かりします」
運転手が頷き、バッグを受け取る。
その瞬間、
“この席に誰かがいた”という可能性が、公式に消えた気がした。
忘れ物として処理されれば、
持ち主不明として箱に入る。
一定期間保管され、
名乗り出がなければ処分される。
そこには「人」が必要ない。
物だけで完結する。
物だけで完結するから、
その席に「人がいた」話も、物と一緒に処理できる。
俺は気づく。
このバスの中で、
最初に「一人分多い」と言ったのは係員だった。
次に、運転手が名簿なしで確認をした。
そして最後に、忘れ物を回収した。
順番が整いすぎている。
偶然というより、
手順のように見える。
その手順は、
“余った一人分”を処理するための手順だ。
係員はバッグの中身を紙に書きつけ、
封筒に入れて封をした。
封筒には、路線名と便名と日付だけが書かれる。
持ち主の名前は書かれない。
書けない。
黒く塗りつぶされているから。
乗客が降り始める。
俺も立ち上がる。
空席の前を通るとき、
座席の下が今は空っぽになっているのが見えた。
何もない。
名札もない。
バッグもない。
それなのに、
空席の輪郭だけが残っている。
座面の沈みがない。
毛布の皺がない。
紙カバーの折り目がない。
誰も座っていないことが、
証拠として残っている。
それが、
一番不気味だった。
バスを降り、ターミナルの空気に出る。
朝の匂い。
コーヒーの匂い。
新聞のインクの匂い。
日常の匂いが濃いほど、
夜行バスの出来事が薄れる。
薄れていくのに、
最後に一つだけ残る。
黒く塗りつぶされた名札。
名前を書くための札。
名前を隠すための札。
あれを用意したのは誰だ。
なぜ塗りつぶした。
塗りつぶすことで、何を守ろうとした。
俺は自分のポケットを探り、
透明な欠片の感触を確かめた。
増えている。
また増えている。
拾った覚えはない。
だが、確かにある。
欠片を出すのはやめた。
出した瞬間に、
俺の持ち物になる。
持ち物になれば、
また処理される側に回る。
処理される側に回るのは、
もう十分だと思った。
改札へ向かう人の流れに混じりながら、
俺は一度だけ振り返った。
夜行バスは、すでに清掃の準備に入っている。
窓が開き、空気が入れ替えられていく。
空席は、
清掃の中でただの座席になり、
何事もなかったように戻る。
誰も座らなかった席。
誰の荷物でもなかったバッグ。
誰の名前でもなかった名札。
それらは、
ちゃんと“解決”した。
解決したはずなのに、
俺の中でだけ、
一人分が取り残されている。
取り残されたまま、
次の便の名簿にだけ、
また紛れ込むのかもしれない。
そう思ったとき、
朝の空が、少しだけ低く見えた。
誤字脱字はお許しください。




