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『破片のパズル』  作者: くろめがね


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第12話 空いた席

17話です

夜行バスが動き出しても、空席はそのままだった。


発車の揺れで、車内の荷物がわずかにきしむ。

誰かがシートベルトを締め直す音。

リクライニングを倒す音。

小さな生活音が続き、やがてそれも途切れる。


空席だけが、場違いに整っている。


通路側の肘掛けは下げられたまま。

背もたれは起こされたまま。

座面は沈んでいない。

毛布も、スリッパも、ヘッドレストの紙カバーも、誰の手も通っていない。


「確認ミスでした」


係員はそう言って戻ってきた。

あれで終わったはずなのに、席は残っている。

訂正されたなら、誰かが座るはずだ。

そうならないなら、最初から「いなかった」扱いになる。


夜行バスは高速に乗る。

窓の外が黒くなり、街灯が一定の速度で流れ始める。


俺は目を閉じ、耳だけで車内を追う。

音で人数が分かる。

咳、鼻をすする、スマホのバイブ、イヤホンの微かな漏れ。

それらが規則的に散らばっている。


空席だけが、音を返さない。


後方で、抑えた声がした。


「……あそこ、空いてるね」


「ミスって言ってたじゃん」


「でも、席残ってる」


「いいじゃん。座り直せるし」


そう言う声は軽い。

だが、誰も席を移らない。


空席があるのに、そこへ行かない。

余計な自由を持ち込まない。

皆、決められた形のままで夜をやり過ごそうとしている。


やがて消灯のアナウンスが流れた。


「まもなく消灯いたします。

 走行中は危険ですので席を立たないようお願いいたします。

 お手洗いは後方にございます。

 ご利用の方は停車時に——」


いつも通りの文句。

ただ、今日は「席を立たないよう」という部分だけが引っかかった。

立てば、数が崩れる。

それがいけないという空気が、車内に薄く漂っている。


車内灯が落ち、読書灯が点々と残る。

空席の上は暗いままだ。


暗いのに、見える。

暗いから、見える。


テーブルの端に差し込まれた案内紙が、微かに白い。

そこだけが、空席の「存在証明」みたいに浮いている。


ふと、紙に鉛筆の跡があるのが分かった。


近づかなくても、線の密度だけで分かる。

書いて、消した。

消しきれずに残った。

そういう跡。


俺は席を立つべきか迷って、やめた。

夜行バスの車内で立ち上がると、音が大きい。

足音が通路を通って車内全体に広がり、

眠りかけの人間を無駄に起こす。


それに、

空席に近づきたくない気持ちがあった。


近づけば、何かを確かめてしまう。

確かめたら、戻れない。


俺は目を閉じたまま、

空席に「誰が座るはずだったのか」を勝手に考えている自分に気づいた。


名前。年齢。目的地。

そういう情報が、紙一枚に収まっている。

名簿は、そういうものだ。


だが、ここでは名簿だけが先にある。

人間が後からついてくるはずなのに、ついてこない。


逆だ。


誰かの不在が、

先に確定している。


バスは一定の速度で走る。

窓ガラスに自分の顔が薄く映る。

暗い車内の中で、顔だけが白い。

表情は読めない。


そのとき、また小さな音がした。


カチ、と軽い音。


空席のほうだった。


誰かがそこに触れたような音ではない。

機械的で、乾いた。

ただ、たしかに「何かが動いた」音。


俺は目を開け、そっと空席を見る。


何も動いていない。

座席は空のまま。

案内紙も揺れていない。


音の出所は分からない。


誰かがトイレへ立ったのかもしれない。

誰かがペットボトルを落としたのかもしれない。

この暗さでは、確かめようがない。


だが、音だけが残った。


それが、

空席の「呼吸」みたいに聞こえた。


妙だと思い、考えるのをやめようとする。

しかし、こういう夜は、考えないほうが難しい。


俺の家にも、

こういう「座らない席」があった。


椅子が一脚だけ、使われないまま置かれている。

食卓に、皿が一枚足りない。

棚の段が一つ空いている。


それは最初からそこにあったようで、

途中から増えたようでもある。


増えたのに、

誰も増えたとは言わない。


空席を「あるもの」と認めると、

次に説明が必要になる。

説明は、家の中のどこにも用意されていない。


だから、

見ないふりをする。


今、車内の全員がやっているのも、同じだった。


空席を「空席」として扱わない。

「最初からこうだった」として扱う。

そのほうが眠れる。


読書灯が一つ、消えた。

誰かが眠りに落ちたのだろう。


車内の呼吸が揃い始める。

空席だけが、その輪から外れている。


俺は、ポケットの中の透明な欠片を指でなぞった。


角の白い濁り。

薄いフィルム。

どこにもはまらない形。


欠片の感触が、

空席の存在と同じ種類のものに思えた。


「ここにあるのに、なかったことにされる」


それは物の話に聞こえる。

だが、

人にも起こる。


空席の上で、

案内紙の端がわずかに浮いて見えた。


その下に、紙の角がもう一枚ある。


見間違いかもしれない。

夜行バスの暗さは、距離の感覚を狂わせる。


それでも、

角の形だけははっきりしていた。


名札の角みたいに丸い。

透明なフィルムが貼られている。


俺は息を止め、目だけでそれを追った。


紙の角は、

案内紙の影に半分隠れて、動かない。


ここで立ち上がれば確認できる。

だが、立ち上がる理由がない。

理由がない行動は、夜行バスでは目立つ。


それに、

確かめたくなかった。


確かめた瞬間、

空席は「誰かの席」になってしまう。

「誰か」を、数の中に戻してしまう。


戻したくないのか、

戻せないのか。

自分でも判断できない。


バスがゆるく揺れ、

窓の外の光が一本、車内を横切った。


その光が、空席の下を一瞬だけ照らした。


紙の角が見えた。

確かに、そこにある。


ただし、

文字はない。


文字があるべき場所だけが、黒く塗りつぶされていた。


それを見た瞬間、

背中が冷たくなった。


誰かが書いて、消したのではない。

最初から、そこが読めないようにしてある。

そういう塗り方だった。


バスは何事もなく走っている。

乗客の誰も気づかない。


空席の下にある紙片だけが、

「誰か」を隠したまま揺れている。


俺は目を閉じ、

見なかったことにした。


見なかったことにするという行為だけが、

この車内で許される正しい手続きのように思えた。


消灯後の車内は、さらに静かになった。

音が減るほど、空席の輪郭が濃くなる。


眠ろうとしても、

空席が先に眠ってしまわない。


そのまま、夜行バスは暗い道を進んでいった。


そして、

あの席には誰も座らないまま、夜だけが深くなった。

誤字脱字はお許しください。

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