第10話 迎えられなかったもの
10話です。
家に戻ると、
玄関の棚の上に、古いメモ帳が一冊置いてあるのに気づいた。
見覚えのある表紙だった。
何年も前から電話の横に置かれていたものだ。
父がよく使っていた。
出前の番号や、取引先の会社名や、
近所の人の連絡先などを書きつけていた。
いつからか、誰も開かなくなった。
今日は、なぜか棚のいちばん手前に出ている。
コートを掛ける前に、
つい手に取ってしまった。
一枚目、二枚目は、
よくあるメモで埋まっていた。
「クリーニング」「法律相談」「○○医院」
母の字も混ざっている。
三枚目をめくったとき、
視線が止まった。
「迎え 21:30」
ボールペンでそう書かれている行があった。
その横に、団地の名前。
さらにその下に、部屋番号。
今日見てきたインターホンの数字と、同じ並びだった。
名前の欄には、
鉛筆で何か書かれた跡がある。
消しゴムで強くこすられたのか、
そこだけ紙が薄くなっていた。
端だけ、かろうじて残っている線があった。
「こ」から始まる曲線。
そこから先の部分を、
目が自動的に読み取ろうとした瞬間、
頭の奥に鈍い痛みが走った。
ページを閉じる。
閉じた表紙の上に、
ポケットから出した透明な欠片を置く。
欠片の角には、
細いフィルムが貼られている。
何かから剥がされたような、
中途半端な形。
タクシー会社のメモ。
団地のポストのテープ。
バスの忘れ物箱の写真。
家のアルバムの抜けたページ。
似たような素材が、
違う場所で少しずつ増えていく。
父がこのメモ帳に「迎え」と書いた日のことを、
かすかに思い出す。
警察が家に来た夜だったかもしれない。
兄の名前を呼ぶ声と、
母が台所で何かを落とす音がした日。
誰を迎えに行くはずだったのか。
迎えに行って、
ちゃんと会えたのか。
あるいは、
その前に全部が終わってしまったのか。
父は結局、タクシーを呼ばなかった。
電話線を抜く音だけが、やけに鮮明だった。
メモだけが残り、
消されずにページの間に挟まっている。
タクシー会社の古いデータと同じように。
迎えられなかったものたちが、
いろいろな場所で「破片」になっている。
それが、
バスの座席の下や、
タクシーのシートポケットや、
団地のポストや、
家のアルバムの中で少しずつ見つかっていく。
俺が見つけているのか、
向こうから寄ってきているのか、
その区別もよく分からない。
メモ帳を棚に戻し、
欠片だけを机の上に残した。
照明を落とすと、
透明な板の縁が、
ごくわずかに光を返した。
バスの中の小さな写真騒ぎも、
タクシーの迎えの空振りも、
表向きの話としてはとっくに片がついている。
それでも、
どこかでまだ呼び出され続けている名前がある。
そう思うと、
玄関のほうの暗がりが、
少しだけ深く見えた。
それが何を迎え入れようとしているのかを、
この時の俺は、まだ知らなかった。
誤字脱字はお許しください。




