第二研究室
ゴポ…
ゴポ…
仄暗い光と水の様な音で意識が徐々に引き上げられる。
(…う…こ、こ…は…?)
生き物の腹の中のような、鈍く濁った光。
液体が満ちた医療ポッドの中で、
紅華は、ゆっくりと意識を取り戻した。
混濁していた意識が徐々に戻ってくる
終之型、使用者の身体と精神を蝕む禁忌の技
(…妾は、負けたのか…)
その瞬間肺が焼ける。
そう錯覚するほどの痛みで一気に正気に戻る。
肋骨の奥が、きしむように痛む。
全身が、重い。
(……まだ、生きとる、か…)
まぶたを開くと、視界は歪んでいた。
天井から伸びる無数のケーブル。
液体の中を漂う微細な粒子。
骨接合ナノパッチが、まだ体内で作動しているのが分かる。
ーー治療途中。
それも、完了させる気のない。
紅華は、すぐに理解した。
これは回復等ではない、保存と観察のための檻だ。
裸の身体に、拘束具の様に全身に繋がれたチューブやケーブル
腕と脚は自由に動かせず、首も僅かに動かせるのみだった
(……実験対象、というわけか)
液体の中に浮かんでいるのに、やけに喉が乾く。
大声で叫びたい衝動を必死に抑え、頭を振る。
視線が、自然と横に滑った。
隣
ぼやけた視界の向こう側に、もう一つの医療ポッドが見える。
そこにーーいた。
クロエ
液体に浮かぶ、細い身体。
白い肌。
ゆらゆらと揺蕩う様に、半分だけ白く変色した髪がうっすらと光に透けて見える。
そしてーー
クロエの顔を覆う、見覚えのある黒い仮面。
紅華の赤い瞳が、かっと燃え上がる。
(……まだ、終わっておらんのじゃな!)
あの仮面。
魂を縛る、ゾンメルの道具。
クロエの指先が、微かに動いた様に見えた。
反射的な動き。
意思ではない。
〈脳波同期率:安定〉
〈従属状態:維持〉
淡々としたログが、空間に浮かぶ。
紅華は、歯を食いしばった。
(……栞)
名を呼びそうになって、飲み込む。
今の彼女は、呼びかけに応じる存在ではない。
ーーならば。
紅華は、腹に力を込めた。
(うおおぉぉぉ…っ!!)
声にならない叫びを上げる。
腕の筋が悲鳴を上げ、肋骨の奥で何かがずれた感覚がした。
だが。
(……ここまで来て、止まれるものか!)
両腕両足に、更に力を込める。
ミシ、と嫌な音。
次の瞬間ーー
バキン!!
ポッドの外殻が割れた。
薄緑色の液体が床に溢れ、警告音が鳴り響く。
〈…拘束解除異常〉
〈被験体No.227 覚醒…〉
「…ゲホッ…!ゲホッ…!」
口から血の混じった緑色の液体を吐き出す
紅華は、床に膝をついた。
呼吸が荒れ、肩で息をする。
視界が揺れる。
それでも、立ち上がる。
裸のまま、血と液体に濡れた足で、
隣のポッドへユラユラとふらつきながら向かう。
クロエの前に立ち、ガラス面に手を伸ばす。
「……もう、ええ」
すぅっと拳を引くと、躊躇なく振り下ろす
ガキン!!
紅華は素手でガラス面を殴った。
「栞っ…!!」
ガキン…!ガキン…!ガキン…!
室内に音が響き渡る。
拳から血が噴き出るが、紅華は一向に構わず殴り続ける
次の瞬間。
〈防衛プロトコル起動…〉
クロエのつけている仮面中央にあるガラス玉が赤く光る。無機質な光。
「…!」
クロエがポッドのガラス面を割って外に飛び出す。
次の瞬間、紅華の腹部に鋭い衝撃が走る。
「ぐふぉ…っ!」
クロエの蹴りが、紅華を壁に叩きつける。
「ーーぐっ!」
背中を打ちつけ、口から息が抜ける。
だが、立ち上がる。
クロエはポッドを割って飛び出すと、静かに着地した。
E.V.F.で異常に浮かび上がった血管が、肌に張り付いた髪の毛の隙間でピクピクと痙攣している。
「…排除…」
素足で床が培養液で濡れており、滑ってまともに動けないはず
ーーしかし、そんな物は無いかのようにクロエは紅華に素早く突進する
「…クッ!」
反射的に紅華は掌底を繰り出すが、クロエは半身を捻り躱すと、すれ違いざまに手刀で紅華の右腕を払う
動きに、迷いがない。
呼吸も、乱れない。
まるで精密機械の様な、感情のない殺人人形。
紅華は、身を屈めて後ろ手に回し鉄扇を探すーー
が、自分が裸で有ることを思い出す。
(……素手、か)
それでいい。
クロエが低心で影のように踏み込む。
直線的で、最短距離。
突き刺すような手刀が繰り出される。
しかし紅華は避けない。
グチィッ!
そのまま肩で受け、肉が裂ける。
血と培養液が飛び散り、クロエの手刀が紅華の肩を抉る。
しかし紅華は意に介さないかのように受け入れる。
次の瞬間、紅華はクロエの腕を掴み、体重ごと引き寄せた。
舞わない。
斬らない。
ただ、組み付く。
「…離せ…」
クロエの膝が、紅華の脇腹に入る。
骨が軋む。
「ガ、ガハッ…」
紅華は血を吐くーー
それでも、離さない。
「……栞」
妹の名を呼んだ。
クロエの動きが、一瞬だけ止まる。
だが、すぐに再起動するように、紅華の喉へ手が伸びる。
紅華は、さらに踏み込んだ。
自分の身体を、盾にするように。
殴られ、切られ、血が床に滴り落ちる
それでもーー
腕を回し、抱き留める。
「……すまんのう」
紅華の目からは涙が溢れていた。
クロエの耳元で囁く。
低く、静かに、そして何よりもーー優しく。
「守ると言いながら、また、独りにしてしもうた」
クロエの震えが、腕に伝わる。
仮面の下で、何かが軋む音。
「……じゃが」
紅華は、さらに強くクロエの細い身体を抱きしめる。
「今度は、離さん」
濡れた2人の身体が、熱を帯びて密着する。
互いの心音が一つになるかの様に。
「…あ…う…」
クロエの口からうめき声が漏れ、仮面のガラス玉がチカチカと瞬く。
ーーそしてひびが入る。
〈同期率低下〉
〈支配プロトコルーー不安定〉
クロエの喉から、掠れた音が漏れた。
「……ねえ……さま……?」
紅華の目が、見開かれる
次の瞬間ーー
小さな乾いた音と共に、仮面が床に落ちた。
クロエの瞳が揺れる。
焦点が定まらない。
やがて。
ーー翡翠の光が、ゆっくりと戻った。
「……あ……」
力が抜け、クロエは紅華の腕の中に崩れ落ちる。
紅華は、静かに受け止めた。
「……よう戻ったの、栞」
答えはない。だが、呼吸はある。
紅華は、クロエの頬を優しく撫でる。
警告音は、まだ鳴っている。
時間は、残されていない。
(……急がねばならぬ)
ここは、始まりに過ぎない。
彼女たちは、まだ戦っているのだから




