神鏡の間 88.葛城澪
白い円環が、静かに閉じた。
誰の声も届かない。
誰の気配も、干渉できない。
ただ、私だけがーー中央に立たされている。
足元の光は、境界でも守りでもない。
審判の位置だ。
仮面がこちらを向く。
鏡心。
『候補生No.88、葛城澪』
淡々とした声。だが、どこか慎重だ。
『君は、本制度における最大の逸脱点である』
『索引コピー、Manual I/O、非致死選択、ARcherの同調ーー
いずれも、基準外』
床に展開される記録。
私の右掌が光る映像。
燈ちゃんと葵君を引き戻した、あの瞬間。
『本来であれば、消去、あるいは封印が妥当』
胸の奥が、静かに締まる
『だが、君の行動は一貫している』
仮面が、わずかに傾いた。
『君は、選別を拒否した』
『切らず、殺さず、拾い上げる選択を繰り返した』
私は答えない。
もう、言葉にする必要はなかった。
『問う』
仮面が真正面を向く。
『君は、何を守る?』
「……人、です」
喉が震えたが、目は逸らさない。
「制度でも、結果でもないーー
その場にいた、人たちです」
沈黙。
『それは、社会基準にならない』
鏡心が淡々と告げる
「分かってます」
私は即答した。
「確かに効率も悪いし、矛盾だらけ」
「全員を救えるわけじゃない」
右掌が、熱を帯びる。
奥で、あの衝動がざわめく。
「でも、それでも…っ!
ーー私はそれを選びました。だって…」
私の声を鏡心が遮る
『葛城澪』
仮面の声が、低くなる。
『君の内部には、M.I.O.-001、ARcherが存在する』
『分離すれば、外界への帰還は可能』
一瞬、迷いが走る。
祖父の工場。油の匂い。夕暮れの空。
でもーー私は首を振った。
「分離しません」
言い切った声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
『共存を選べば、外界には戻れない』
「それでも、いい」
胸の奥で、なにかがすとんと収まった。
怖さが消えたわけじゃない。
ただーー迷いがなくなった。
「誰かが、ここに残らないといけない」
静まり返った空間で、私の声だけが残る。
「この仕組みが、壊れきる前に。」
沈黙ーー
雷蔵くんが、堪えきれずに一歩踏み出す。
「おい!それは、澪ちゃん一人が背負う話やないき!」
それを皮切りに、今まで黙って聞いていた皆が声を上げる。
こはるが、唇を噛む。
「……澪ちゃん、勝手だよ」
燈ちゃんが、拳を握りしめる。
「ふざけんな!ここまで来て、置いていくとか言うなよ!!」
葵君は何も言わない。
けれど、眼鏡の奥の視線は、鏡心を真っ直ぐ射抜いていた。
鏡心が、ようやく口を開く。
『……君の選択は、制度の外にある』
白い光が、わずかに濁る。
『G.E.A.R.は、君を合格とも、不合格とも定義できない』
その言葉に、空気がざわめいた。
「はぁ?そればっかじゃねーかよ!」
燈ちゃんが短く声を漏らす。
鏡心は構わず続ける。
『よって、裁定を下す』
床の光が、ゆっくりと沈み込む。
『候補生No.88 葛城澪』
『個体としての外界復帰は、認めない』
胸が、じわりと痛んだ。
『ただし、消去・禊・再定義も行わない』
雷蔵くんが、歯を食いしばる。
「……結局、閉じ込めるだけやんか」
鏡心は、感情のない声で続ける。
『君は、Seed領域に接続される』
『観測・抑制・記録の中継点として存在を保持する』
ーーここに、残る。
それが、正式な言葉になった瞬間だった。
『なお、外界への影響を最小化するためーー
君に関連する記録の一部は、別個体に分散・反映される可能性がある』
可能性
その曖昧さに、それまで押し黙っていた葵君が一歩前へ出た。
「ひとつ質問だ」
鏡心が視線を向ける。
「“分散・反映”とは、人格か、記録か、それともーー存在か」
一瞬、仮面の奥で何かが揺れた気がした。
『……詳細は非公開とする』
その瞬間だった。
「答えてない!」
葵君の声は低い。
「それは裁定じゃない。ただの保留だ!」
燈ちゃんが続く。
「都合の悪いとこ、全部ぼかしてるだけじゃねぇかよ!!」
雷蔵くんが、ぐっと拳を握る。
「人を道具みたいに扱うがが、基準っちゅうがか…」
こはるが、小さく首を振った。
「……変だよ、そんなの。」
その言葉と同時に、白い空間がわずかに歪んだ。
『警告』
『論理整合性に逸脱を確認』
鏡心の声が、ほんの少しだけ低くなる。
『これ以上の介入は、工程の破綻を招く』
葵君が、はっきりと言った。
「もう、破綻してる」
その瞬間。
白い光が、私の足元からせり上がってくる。
床ではない。壁でもない。
円環そのものが、私を“中心”から切り離そうとしていた。
私の周りに小さな鏡が幾つも浮かぶ
キラキラと光を反射しながら、私の周りを高速回転する。
光りに包まれながら、私の意識は光に溶けていくような錯覚を覚える
「ーー待てや!!」
雷蔵君の声が、空間を叩いた。
いつもの土佐弁は荒れていて、怒りがそのまま剥き出しになっている。
「なんやそれは! 残る言うたら、それで終いか!」
「制度? 裁定? ふざけるなや! 人ひとり抱え込んで、知らん顔する気か!!」
雷蔵君は、円環の縁に拳を叩きつける。
金属音が響く。
(……雷蔵君…)
彼は、私の方を見ていた。
ーーいや、見て“いない”。
私の声は、もう届いていない。
「澪ちゃん!! おまんが一人で背負う話やない!!」
その怒りは、制度に向けられていた。
個人じゃない。
この仕組みそのものに。
「おい、聞いちゅうか! 鏡心!!」
『ーー確認する必要はない』
鏡心の声は、変わらず平坦だった。
『裁定は確定事項』
『葛城澪の処遇は、既に記録された』
切り捨てるような断言。
次の瞬間、燈ちゃんが前に出た。
「……はぁ?」
短く、低い声。
「…ふざけんなよ」
彼女は、何も考えていない顔をしていた。
けれど、それは“考えない”ことを選んだ顔だった。
「ふざけんなっ!!
何が裁定だよ。何が記録だよ」
「だったらアタシは、今ここで壊すー」
拳が鳴る。
床を蹴り、距離を詰める。
「澪はなーー」
叫ぶ。
「アタシらの後ろで、ずっとブレーキ踏んでたんだよ!!」
パキーン!!
白い光に燈ちゃんが弾かれる
(…燈ちゃん!)
彼女の怒りは、直情的で、真っ直ぐだった。
理屈も制度も関係ない。
「へっ!それを、今さら残れだぁ?」
「都合よく使い潰す気か!!」
先程の衝突であろう、口の橋に血を浮かべながら鏡心を睨みつける。
『ーー感情的反発を確認』
鏡心は淡々と告げる。
『しかし、反発は裁定を覆さない』
燈ちゃんが歯を食いしばる。
その横で、葵君が一歩、前に出た。彼は、走らない。叫ばない。
眼鏡の奥で、視線だけが鋭くなる。
「ーーそれは論理的に破綻している」
その一言で、空気が変わった。
「葛城澪を“中継点”として固定する」
「それは、制度の負荷を一個体に集中させる行為だ」
葵君は、空中に指を走らせる。見えないログをなぞる仕草。
「長期運用におけるリスクは?」
「人格崩壊、意思消失、暴走ーーいずれも既に観測済みだ」
鏡心を、真っ直ぐ見据える。
「それを理解した上で実行するならーー
これは裁定じゃない。“押し付け”だ!」
沈黙。
一瞬だけ、鏡心の仮面が傾いた。
『ーー反証は無効』
『当該個体以外に、代替可能な接続点は存在しない』
『合理的判断である』
葵君は、唇を噛んだ。
「……合理的、ね」
その声は、怒りよりも悔しさを含んでいた。
そのときだった。
「……やめて」
こはるの声。
小さい。
けれど、はっきりと届いた。
彼女は、胸の前で指を組んでいた。
いつもなら、拍を刻む位置。
でもーー乱れている。
「それ以上、進まないで」
床に、波形が走る。
不安定で、揺れた拍
私は、はっとした。
ーーこはるが、“止め”を乱している。
「澪ちゃんは……
澪ちゃんは、自分で選んだ」
震える声。
「でも、それとこれとは……
違う」
彼女は、初めて前に出た。
「誰かが残るって決めたからって、周りが、何も言わなくていい理由にはならない!」
拍が、崩れる。
整っていたはずの場が、ざわつく。
鏡心が告げた。
『ーー干渉を確認』
『防衛モードへ移行する』
白い空間が、音を立てて変質する。
光が、硬質に変わる。
『裁定は確定事項』
『これ以上の反発は、処理対象となる』
次の瞬間。
ーー“投下”された。
雷鳴と共に、巨躯が降り立つ。
ヴォルテール。
筋骨隆々の身体に雷光を纏い、笑っている。
「ハハッ! いいねぇまだ足掻くかよ、ガキ共ォ!」
その背後の空間が歪む。
ネリスーー
静かに立ち、こちらを“見る”だけで、思考がざらつく。
「興味深い反応ね」
「崩壊直前の群像は、いつも美しいわ」
そして、
鏡面が、裂けるーー
そんな錯覚を覚えさせる様な、刃が擦れる、あの音。
キィ……キィ……
クロエ01。
紫黒の髪を翻し、死鎌を肩に担ぐ。
「あは……見せしめの時間?」
その瞬間、皆が悟った。
ーーこれは、止めに来たんじゃない。
ーー折りに来た、意志を。
雷蔵君が前に出る。
燈ちゃんが構える。
葵君が歯を食いしばる。
こはるが、必死に拍を立て直そうとする。
でもーー
私が、いない。
それが、はっきりと“痛み”になった。
誰かが欠けるということは、
こんなにも、戦えなくなるということだった。
白い光が、私をさらに引き上げる。
(……みんな)
声は、届かない。
私は、伸ばした手をーー
掴んでもらえないまま、向こう側へ引きずられていった。
反発は、始まった。
でも、まだーー足りなかった。




