神鏡の間 37.相馬雷蔵
白い床が、音もなく分かたれた。
円環の中央に残されたのは、相馬雷蔵君。
私とこはるは、円環の縁ーー暗く落ちた区画に追いやられる。
距離は数歩。姿ははっきり見える。
けれど、こちらから声をかけることはできない。
雷蔵君は、一瞬だけ周囲を見回してからーー
こはるを見た。
こはるは、心配そうで、怒っているようで、それでも必死に平静を装っている。
ああ、何度も見た表情だ。
雷蔵君は、いつもの少し照れたような笑い方をした。
あれは、彼なりの「大丈夫」の合図。
鏡心の声が、静かに落ちる。
『候補生No.37。相馬雷蔵』
『君は、G.E.A.R.の想定する候補生像からは、著しく逸脱している』
白い空間に、記録映像が浮かぶ。
少し緊張した表情の雷蔵君。
選考前ーーおそらくG.E.A.R.の選考面接時の記録。
(……怪我で仕事をクビになりまして)
淡々と語る声。
工事現場での事故。
動けなくなった身体。
居場所を失った現実。
(ワイは、生きていくために金が必要なんや)
胸の奥で、何かがきしんだ。
私は、祖父の工場の庇護下で生きてきた。
この人が立たされていた窮地を、私は本当の意味では理解することが出来ない。
『参加動機は金』
『理念でも、使命でもないーー』
違わない。
究極に利己的な理由だ。
けれど。
映像は、次へと切り替わる。
崩れかけた床。
錯乱する候補生たち。
こはるの隣で、身体を張って人を押し出す雷蔵君。
『こはる、援護を!』
焼却兵との戦闘。
骨車に引きずられ、血にまみれながらも、前に出る姿。
さらに映像は続く。
ヴォルテール戦で、ボロボロのパワードスーツを駆る姿。
崩落する水路で、私を背負って走る姿。
ネリス戦で、ひたすら仲間のカバーに徹する姿。
『橘葵のような合理性は持たない』
『柊紅華やクロエ03のような戦闘力もない』
雷蔵君が、ぐっと唇を噛みしめる。
『しかし』
『君と南雲こはるは、結果として最も多くの生存を生み出した』
鏡心が、問いを投げる。
『なぜ、そこまでして他者を救う』
雷蔵君は、少しだけ考える素振りを見せーー
拍子抜けするほど明るく答えた。
「……別に」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「昔から、そうやっただけや」
私は、その言葉で理解してしまう。
ーーああ、この人は、ずっとこうだった。
「施設でも、現場でも」
「助けんかったら、次は自分が要らんくなるき」
「自分のために、やっとんのや」
こはるを見る。
彼女は、光の壁にすがるようにして、泣きながら雷蔵君の名前を叫んでいる。
そうだね、こはる。
彼は、そういう人だ。
どこまで行っても、他人を気遣う。
誰かの居場所を、先に確保してしまう。
鏡心の制度は、【なぜそうするのか】を数値化できない。
理解も、分類も、できない。
しばしの沈黙。
やがて、鏡心が告げる。
『結論を示す』
床が、わずかに光を帯びた。
『候補生No.37 相馬雷蔵』
『君は、G.E.A.R.の合格基準に達していない』
こはるの肩が、小さく跳ねる。
雷蔵君は、一瞬だけ目を閉じーー
それから、笑った。
「……そうやろうな」
その声に、悔しさはない。
むしろーー安堵。
鏡心が続ける。
『だが』
その一言で、私の心臓が強く打つ。
『君は、本選考において』
『“他者を基準とする”という、異例の行動により』 『選考基準そのものを成立させてしまった』
雷蔵君が、こはるを見て微笑む。こはるは、泣きながら、それでも必死に頷いている。
『制度は、君のような存在を想定していない』 『しかし、君が居なければ成立しなかった局面が、確かに存在する』
一拍。
『よって、候補生No.37 相馬雷蔵』
『合格とはしない。だが、失格とも判定しない』
雷蔵君が、目を細める。
『外部評価対象として審査を保留』
『記録は継続するが、処理は行わない』
床が、ゆっくりと動き出す。
雷蔵君の区画が、円環の縁ーー暗がりへと移動していく。
彼は、こはると私に向けて、大げさに肩をすくめた。
「……ワイはここまでやけん、あと、任せるきに」
こはるが、唇を噛みしめて頷く。
私も、深く息を吸って、頷いた。
(……ここは、私が終わらせる)
雷蔵君は、胸ポケットから古びた、錆びついたメダルを取り出す。
ぎゅっと握りしめて、満足そうに笑った。
それから、光の中へと身を委ねる。
白い床が、静かに閉じた。
鏡心の声が、次を告げる。
『次の裁定に移行するーー
候補生No.87ーー南雲こはる』
光が、こはるの足元に静かに灯る。
私は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、
彼女の背中を、まっすぐに見つめた。
(……今度は、私が見てる)




