神鏡の間 56.橘葵
白い床が、音もなく沈んだ。
候補生No.56ーー葵君の立つ区画だけが、円環の中心へとゆっくりと滑り出す。
数歩の距離は変わらない。
けれど、足元の光が薄れ、周囲の白が一段暗くなる。
切り離されたのは場所だけだ。声は、まだ届く。
葵君は一度、足元に浮かぶ数字を見下ろした。
〈橘 葵:11〉
それから、いつもの癖で眼鏡を押し上げる。
表情は落ち着いている。けれど、肩の位置が、ほんのわずかに硬い。
ーー分かっている。
ここが、自分の番だ。
鏡心が告げる。
『候補生No.56 橘葵ーー
君は予選から一貫して、高い論理能力と制御能力を示した』
白い空間に、記録映像が淡く浮かび上がる。
配線、制御盤、端末操作。
刃ではなく、仕組みそのものと向き合ってきた葵君の姿。
『冷静。判断は速い』
『感情に飲まれず、最適解を導く能力がある』
『再構築後の不安定な状態下においても、その対応幅と反応は評価に値する』
鏡心が一拍おいてから続ける
『だが、同時にーー
君は、理解しすぎている』
葵君の眉が、わずかに動いた。
『君の活躍には目を見張るものがある。正に枚挙に暇がない』
鏡心は、淡々と列挙する。
『索引のコピー』
『Manual I/Oを用いた権限越境』
『機密事項への無断アクセス』
『環境設備への例外干渉』
『……いずれも本来、即時失格に相当する行為だ』
白が少し冷たくなる。
葵君は、小さく息を吐いた。
否定もしない。弁明もしない。
『これらを踏まえたうえで、改めて問う』
鏡心の声が、はっきりと落ちる。
『なぜ、規約違反と理解した上で実行したのか』
沈黙
葵君は、私の方を見た。
目が合う。
声は、普通に届く。
だから彼は、はっきりと言った。
「……それが、僕にとって――僕たちにとって、正しいからだ」
白い空間が、わずかにざわめいた。
『制度に反する行為が、正しいと?』
「ああ」
葵君は、迷いなく頷く。
「禊白書は“記録”だ。でも、記録は人を生かさない」
「救える命があるなら、規約より優先されるべきだと判断した」
胸の前で、彼の指が軽く握られる。
「……それが間違いだと言われても、同じ状況なら、僕は同じ選択をする」
しばらく、沈黙。
私は気づく。
空中に表示されている葵君の名前と数値が、微かに揺れていることに。
ーー迷っている。
やがて、鏡心が告げた。
『結論を述べる』
白が、すっと引き締まる。
『候補生No.56 橘葵ーー
君は、基準としての再現性を著しく欠いている』
胸の奥が、きしんだ。
『論理は優秀だ』
『だが、同一条件下で同一判断を下す保証がない』
『ゆえに、G.E.A.R.の“基準”としては不適格』
失格
そう言われると思っていた。
『ただし』
鏡心は、続ける。
『君の行為は集団生存率を向上させた』
『その結果、君達がここに至った事実は否定できない』
私の右手が、じわりと熱を帯びる。
『その成果を鑑み、禊処理は行わない』
葵君の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
『裁定』
白い光が、彼の足元を静かに包む。
『候補生No.56 橘葵ーー
G.E.A.R.正式候補生から除外』
『以後、観測対象として記録を継続』
『社会復帰については許可』
床が、ゆっくりと動く。
葵君の立つ区画は、円環の縁へと押し出され、光の弱い場所に留まった。
消えない。
ただ、中心からは離れる。
最後に、彼はもう一度こちらを見た。
そしてーー
ほんの少しだけ、口角を上げる。
「……あとは、任せたよ」
声は、確かに届いた。
白が、静かに落ち着く。
鏡心が告げる。
『次の裁定に移行する』
『候補生No.2ーー柴崎燈』
燈ちゃんの足元が、橙色に強く光った。




