裁定 柊紅華、クロエ03
白い鏡面が、ゆっくりと呼吸するように明滅した。
中央に立つ仮面
鏡心の声が、温度を持たないまま落ちる。
『次の裁定に移行する』
名を呼ばれる前に、私は気づいていた。
空気が変わったのではない。意味が変わったのだ。
『柊紅華』
柊さんが一歩、前に出る。
肋の傷を押さえる仕草もなく、背筋を伸ばしたまま。その姿は終始美しいままだ。
『当該個体は、候補生資格を有さない
登録情報に偽装を確認
最終審査への参加は認められない』
淡々と、事実だけが語られる。柊さんの眉がピクッと反応する。
『ただしーー』
鏡心が一拍おく。
胸がキュッとする。私は思った。来る、と。
『禊処理は行わない
侵入および妨害の事実はあるが、
候補生の救出・誘導・調停への寄与を考慮し、
即時退場処分とする』
ーー退場。
それだけだった。
私達は目を合わせる。橙ちゃんも葵君も口を閉ざし、じっと柊さんを見つめる。
「退場って、それはーー」
雷蔵君が何か言おうとするのを、柊さんが何も言わず、片手で制す。
否定もしない。抗議もしない。
ただ、静かに扇を畳み、短く息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
私は胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じた。
禊ではない。
生きて、外に出られる。
けれどーー
『次。クロエ03』
その名が呼ばれた瞬間、柊さんの指が、ほんのわずかに強く扇を握り直したのを、私は見逃さなかった。
クロエちゃんが前へ出る。
足取りは静かで、迷いがない。
『クロエ03
当該個体は候補生ではない
また、外部環境下での自立稼働条件を満たさない』
言葉は、より無機質だった。
『よって裁定する
中央管理体へ回収
研究資産として保全』
ーー回収。
その言葉が、耳に残った。
確かにクロエちゃんはその出自から1日に1回、培養液による身体のメンテナンスが必須だ。
このまま試験を続けても、社会に出ることは難しいだろう。
廃棄でも、救済でもない。名前を持たない処理。
「……了解」
クロエちゃんは、短く答えた。
拒まない。問い返さない。
私は一歩、踏み出しかけてーー止まった。
何を聞く?
どこへ行くのか?
生きているのか?
どれも、ここでは許されない。
クロエちゃんは一度だけ、私を見た。翡翠の瞳が、静かに揺れる。
「ーー大丈夫」
それだけ言って、前を向いた。
その瞬間だった。
「待て」
低く、押し殺した声。
柊さんだった。琥珀の瞳が怒りに燃えている。
鏡心は反応しない。
裁定は続行されるはずだった。
「それは回収ではない」
柊さんが、じりと一歩、前に出る。
その声に、熱が混じる。
「……妾は知っておる。その言い回し、その処理、その“保全”」
銀色に鈍く光る扇が、握りしめた拳の中できし、と鳴った。
「妾の妹も、そうだった」
空気が、張りつめる。
私は息を呑んだ。
「名前を変えただけじゃ、箱に入れて、沈めて、“後で使う”と言うただの処分じゃろうが」
鏡心の声が返る。
『用語に差異はない』
その一言でーー
柊さんの中の何かが、完全に切れた。
「差異がない、じゃと?」
扇が、開く。
風を切る音が、白い空間に鋭く走った。
「ふざけるな……!」
柊さんの瞳が、更に燃える。
「それを裁定と呼ぶなら
妾は、受け入れぬ」
「ーーねえ様」
クロエちゃんが翡翠の瞳を潤ませて柊さんに声を掛ける。
一歩、また一歩、柊さんは完全に、鏡心へ向けて踏み出す。
「妹を怪物にし、殺させ、今度はこの子をーーっ!!」
柊さんの視線が、クロエちゃんを射抜く。
「同じ場所へ戻すと言うのか!!」
白い床に、警告の光が走った。
その瞬間、床から轟音と共に鉄柵がせり出す。
白い空間がいくつものエリアに仕切られ、私達はそれぞれ分断されてしまった。
「柊さん!!」
直後、鏡心の声が、初めて強度を上げる。
『柊紅華
裁定妨害を確認』
扇が、構えられる。
柊さんの背に、迷いはない。
「ならばーー」
その言葉の続きを、
私は聞くことが出来なかった。
白い空間が、戦闘態勢へと移行する。
柊さんのエリアにある壁側の大きな扉が、低く響いた。
柊さんは、笑った。
「来い。
妾は、まだ終わっておらぬ」
ーーここから先は、裁定ではない。衝突だ。
ーーーーーーーー
白い床が、低く唸った次の瞬間、鉄柵が床下からせり上がった。
重い金属音が、空間を引き裂く。
視界が分断され、私たちは強引に引き剥がされた。
「ーーっ、柵!?」
私は反射的に一歩退く。
鉄柵は瞬く間に天井近くまで伸び、互いの姿が歪んで見える。
柊さんは、私の右手前側に隔てられた。
クロエちゃんはーー
「クロエちゃん!」
呼んだ、その時だった。
柊さんの背後、壁の一部が音もなく開いた。
白い壁ではない。
奥行きのある、処刑室のような暗い通路。
そこに、
二つの影が立っていた。
一つは、見覚えのある巨躯。
鉄の鎧をまとい、全身に雷の気配を纏う男。
「……っへ、また会えたな」
低く、楽しげな声。ヴォルテール。
もう一つは、
クロエちゃんと同じくらいの背丈の少女。
だが、空気が全く違う。
紫黒の髪に、毒々しいピンクの差し色。
歯を見せて笑い、巨大な死鎌を床に引きずる。
「“ねえさま”ぁ〜、お待たせぇ♡」
歪んだ声と表情。クロエ01。
柊さんが、扇を強く握り締める。
「……貴様ら」
「やだぁ、怖い顔。でもさーー」
01は鎌の柄を軽く叩いた。
「順番、逆じゃない?まずはこっちで遊ばせてよ」
クロエちゃんが鉄柵越しに叫ぶ。
「姉様、下がってーー!」
だが、その声は届かなかった。
なぜなら。クロエちゃんの注意が柊さんへ向いたその一瞬。
背後から“それ”は、音もなく現れた黒い影。
人の形をしているが、決定的に人ではない。
「ーー確保」
低く、濁った声がマスクの下から響く。
「栞っ!!」
叫んだ時には、もう遅かった。
ゾンメルの背中から、無数の触手が伸びた。
それは攻撃ではない。拘束でもない。
“回収”の動きだった。
クロエちゃんの身体が一瞬、硬直する。
「……っ!」
声を上げる暇もなく、触手が首、背、腰、四肢を同時に絡め取る。
「待て!!」
私は柵を叩いた。だが、金属はびくともしない。
ゾンメルは淡々と告げる。
「暴走因子、安定、接続完了」
床が割れ、クロエの身体がまるで吸い込まれるように、ゾンメルの黒衣の中に引き寄せられた。
「クロエちゃんっーー!」
彼女は、こちらを見た。
一瞬だけ。
本当に、一瞬。
その目は、怖がっていなかった。
(……大丈夫)
口が、そう動いた気がした。
次の瞬間、黒衣が閉じた。
光が走り、
ゾンメルの触手が引き戻される。
「回収、完了」
あまりにも、あっさりと。
「……っ、栞ぃぃぃ!!」
柊さんの叫びを背に、ゾンメルは何事もなかったように、闇へ消えた。
その瞬間。
柊さんの背後に黒い稲妻が落ちる。
「柊さん!!」
「……ほう、当たったと思ったんだがなぁ」
ヴォルテールが、肩を鳴らす。
銀の閃光が横薙ぎに走る。
ガキィッ!!
その先で火花が散る。ヴォルテールの電撃を避けた先で、柊さんに01の鎌が振り下ろされていた。
「これ受けるんだぁ。いいねえ、姉様ぁ」
火花を散らしながら柊さんはバックステップで距離を取る。床に浅く血が散る。
01が、鎌を軽く回す。
「ね。
妹も回収されたし……」
彼女は、楽しそうに舌を舐めた。
「次は、あんたの番だよ」
柊さんは、私たちを振り返らなかった。
扇を開き、一歩、前に出る。
「……妾は、逃げぬ」
だがーー
相手は二人。
しかも、準備万端。
私は歯を食いしばる。
(こんなの……裁定じゃない……!)
鉄柵の向こうで、私の視界の中に柊さんの背が小さく映っていた。




