回合
死鎌が床に転がり、冷たい響きを残して沈黙した。
紫黒の髪の少女、クロエ01は、痙攣を繰り返しながら気を失っていた。
その光景に、私たちは誰も声を上げなかった。
ネリスの幻影はすでに消え、残ったのは白い回廊に漂う湿った空気だけだった。
荒い呼吸。焦げた匂い。汗に濡れた掌。
それでも、全員がまだ立っていた。
鏡面に柔らかな光が灯り、アイが映し出される。
『お疲れさまでした。第一審、非致死での終了を確認しました』
相変わらず微笑みを浮かべたまま、アイは静かに言った。
『以降は“最終裁定”に移行します。案内に従ってください』
回廊の奥、壁一面の鏡が淡く開いていく。
そこには、これまでとは違う気配があった。
光でも闇でもなく、ただ圧倒的な「重さ」が漂っていた。
雷蔵君が右腕のパワーアームを下ろし、唸るように息を吐いた。
「……ちょっとは休ませてくれりゃええのに。こいつぁ、骨が折れるぜ」
「折れる骨が残ってるだけマシだろ」
燈ちゃんが肩を回し、口元だけで笑った。
「次が最後なんだろ、気張って行くぜっ」
こはるはノイズランチャーを抱え直し、かすかに首を振った。
「……うん。でも、音が変わってる。さっきまでの試験場の響きじゃない」
葵君が端末を撫で、表示を切り替える。
「データ層も違う。これは……隠されていた審判中枢に直結してる」
クロエちゃんは黙って、瞳を伏せる。
柊さんは扇を畳み、淡々と口にした。
「逃げ道は無い。進むだけじゃ」
私の右掌が、じんじんと熱を持っていた。
分かっている。
この先で問われるのは生き残る力じゃない。
もっと、根本的なーー存在そのものをどう扱うかという問い。
アイの声が響く。
『大丈夫。あなたたちは、ここまで来た。それ自体が、答えのひとつです』
その声に背を押されるように、私たちは開いた鏡の向こうへ足を踏み出した。
そこはーー裁きの場だった。
白い鏡がひとつ、またひとつと開き、円環の中央に重なっていく。
光はなく、ただ反射だけが増えていく。
やがて、仮面の声が落ちた。
『審理を開始する。対象、候補生群』
その声に合わせて、鏡面が揺らぎ、映像が浮かぶ。
そこに刻まれていたのは、私たちの欠けと逸脱の記録だった。
------
『葛城澪。索引コピーによる逸脱行為。禊における消去処理を回避し、候補生二名を強制的に引き戻した』
スクリーンに、私の右掌が光を刻む瞬間が映る。
燈ちゃんと葵君を無理やり救ったあの場面ーー胸の奥がざわつく。
『柴崎燈。橘葵。不完全復元。
魂質量は欠損を残し、禊白書には異常記録として保存されている』
燈ちゃんが舌打ちし、葵君は眼鏡を指で押し上げる。
二人の姿が映るたび、背後の鏡が不気味に脈打った。
『クロエ03。クローン体。EVF依存の恒常供給がなければ存在維持不可。
ーー人為的複製物を候補生と認めるのか、審理対象とする』
クロエちゃんが微かに眉を動かす。
胸元に忍ばせたアンプルが、重みを増すように感じられた。
『柊紅華。再参加。候補生規約に反し、外部からの介入を行った存在』
柊さんは一切顔を動かさず、扇を膝上で閉じた。
『相馬雷蔵及び南雲こはる。資格外より強制編入。適性審査を経無いまま参加』
雷蔵君が「ちっ」と短く舌を鳴らした。
さらにスクリーンが切り替わり、映し出されたのはーー私の体内に潜む赤黒い影。
『そして、M.I.O.-001——識別名、ARcher。
朝倉夫妻の研究より残存する初期因子。葛城澪の位相に宿存。暴走時は周囲を無差別に攻撃し、人為的制御は不可能』
胸の奥が掴まれるように痛む。
鏡の中の私が嗤っていた。
------
『以上、候補生群はすべて“基準外”。
処分ーーすなわち分離と消去が妥当。
ただし、例外として“新基準”として承認する道も存在する』
仮面の声は冷たく続けた。
『お前たちが、自らの逸脱を認め、その上で人類の基準として示すことができるなら。
この場で刻まれた記録は、抹消ではなく“裁定”として保存される』
息が詰まった。
つまり、ここで「自分たちを切り捨てるか」「欠けたまま認める基準を作るか」が問われているのだ。
燈ちゃんが拳を握り、低く吐いた。
「……始まりやがったな」
私はレンチを握り直す。
右掌が、熱を帯びていく。
白い鏡の中心に、私の姿が映し出された。
けれど、それは“私”じゃない。
鏡の奥に立つもう一人の自分。
黒い影のような髪、瞳には紅の光が燃えていた。
歪んだ笑みと共に、手には見覚えのある斧槍ーーだが刃は赤黒く濡れ、周囲の空気すら灼いている。
『——M.I.O.-001、識別名:ARcher。』
鏡心の声が空に溶ける。
『候補生葛城澪の位相内に存在。逸脱因子。分離処分か、共存認可かをーー今ここで裁定せよ』
胸が凍りつく。
(……来た。ずっと背中でざわめいていた“あいつ”が、表に出される)
影の私は、こちらを見て笑った。
「壊す、壊す、殺す、コロス、コワス…」
声が、脳の奥をざらつかせる。筋肉が勝手に軋み、肺が焼けるように熱を持つ。
立ち上がろうとする私の右腕が震え、レンチを握った手に赤い閃光が走った。
「——澪!」
燈ちゃんの叫びが届いた。
「お前まで“そっち”に行ったら終わりだ!」
クロエちゃんが翡翠の瞳で私を射抜く。
「澪……あれはあなたの中に残された“鍵”。恐れるんじゃなく、掴んで」
影の私は嗤う。
「壊さない?殺さない?喰らう、くらうクラウクラウ…!」
頭が割れるように痛い。
鼻からつうっと血が垂れる。
柊さんが扇を鳴らす。
「澪。選べ。分離すれば楽になるやも知れぬ。共存は茨の道じゃ」
……分離すれば、楽?
確かにそうだ。
私の中から“こいつ”を引きはがせば、暴走も恐怖もなくなる。
おじいちゃんにも迷惑をかけずに済む。
けれどーー。
私は自分の右掌を見下ろした。
油に汚れ、工具で固くなった手。
おじいちゃんと何百回もレンチを回してきた手。
燈ちゃんが笑って殴り返してくれた時も、こはるが手を握ってくれた時も、葵君が端末を渡してくれた時も、この掌があった。
クロエちゃんだって、私の右手を鍵にして初めて解放できた。
私は、掌を鏡面に重ねた。
「……分離なんかしない。私は、この手で全部抱える」
影の私は目を見開いた。
「抱える?」
「うん。だってーーあなたはお父さんとお母さんが残したものだから」
「……っ!」
瞳に走っていた赤い炎が、少しずつ形を変える。
歪んだ笑みは薄れ、鏡の奥の影が震えた。
黒い斧槍が砕け、赤い火花が空に散る。
『選択を確認。葛城澪、ARcherとの共存を選択。』
鏡心の声が低く響く。
『判定:分離不可。位相固定を実施する』
体の奥で熱が爆ぜ、私の意識がぐらりと揺れた。
けれど、暴走の衝動は暴風のように荒れ狂いながらも、どこかで“軌道”を掴まれている。
私と、もう一人の“私”がーー互いに引き合い、同じ足場に立った。
クロエちゃんが小さく頷く。
「……やっと並んだんだね」
私は息を吐き、掌を鏡から離した。
影はもうそこにはいない。けれど胸の奥で、確かに私と一緒に呼吸していた。




