調停完了
雷と金属臭で満ちていた空気は、今は薬品の甘さに変わっている。
足元の水路はE.V.F.で重く、外周からは子供たちの白い影と、ゾンメルの黒い触手が切れ目なく押し寄せる。
押し返せてはいるが、輪はじわじわ狭まっていた。
『残り70秒』
「殲滅は不利だ。外へ出す方に切り替える」
葵君が短く言う。
「拍は私が保つ。出入りを短くして」
こはるが応じる。
私はうなずき、レンチを握り直す。
「相馬君、圧力パネル。排水弁を開けて乾いた輪を作る」
葵君が雷蔵君に指示を出し、脇にある排水弁のレバーを指す。
「応!やっちゃる!」
雷蔵君が踏み込み、レバーを引く。
ゴボゴボと言う音が響き、床奥の弁が開く振動が伝わる。
「格子、局所遮断を試してみる。漏電は止めるよ」
葵君が短く言う。焦げた端末を素早く開き、コンソールを叩く。
足下の電位が落ち、直径数メートルの乾いた円が生まれた。
「子供たちの誘導は私がやる」
クロエちゃんが素体を胸前に構え、帯域を絞った微弱な信号を外周へ流す。
子供たちの動きが鈍くなる。
「外へ流れる波形だけにする。ゾンメルからの上書き干渉は避けるわ」
「さん、に、今」
こはるの拍が続く中、燈ちゃんはリング縁で踏み替えの瞬間だけ斜めに切り、触手の進行を遅らせる。
再生に伴う増殖を避けるため深くは断たない。
柊さんは触手の返しだけを扇で止め、力の向きを外側へ逃がす。
私は床フックと縁のボルトを見つけ、レンチで角度を変え、触手を噛ませて固定する。
引けば自分で締まる形だ。
ドールズは波形に引かれて外へ流れ、外周で滞留する。
触手は縁に噛まれて動きが鈍る。
リング内は私たちの呼吸が回るだけの空間になった。
『残り60秒。現在の校正候補状況です』
アイのアナウンスと同時にリングの上、格子に薄い文字列が滲む。
〈CALIBRATION CANDIDATE RANK:
#1 KATSURAGI MIO
#2 CHLOE-03 …〉
「あれは…私、とクロエちゃん…?」
私の言葉に葵君が答える。
「そうか!あのカウントは第三層の校正スロットのタイマーだ!ゼロで1人選ばれる」
「つまり、どういう事だってんだ?!」
雷蔵君が鉄パイプで触手を払いながら聞く
「現ランキング一位は葛城さんだ。でも、封じ込め成立まで持たせれば、クロエさんが指名できる。素体を置き換えして逃れられる!」
葵君が確認する。
「乾いた床を維持する。再生促進はそのまま避けて。固定と誘導で外周滞留を稼ぐ」
「了解!」
私は面の下辺を押さえ、ヴォルテールの視界をさらに狭める。
「入る、離れる」
こはるの拍が少しだけ速くなる。
燈ちゃんが入って止め、離れる。
柊さんが線で間合いを作り、離れる。
クロエちゃんは要所を一撃で固め、離れる。
雷蔵君は体で押し、私が固定点を増やす。
「チィッ!鬱陶しいぜ!」
ヴォルテールが苛立たしげに両腕を振るうが、空を虚しく切るばかりだ。
無理はしない。外へ送ることだけに集中し、深くは叩かない。収めることだけを考える。
白い影は外周で回り続け、触手は縁で絡まり始める。
E.V.F.はまだ満ちているが、輪の内側に流れ込む勢いは落ちた。
『残り50秒』
「遮断を間欠にする。戻り道を一歩遅らせる」
葵君の言葉に皆が頷く。
格子の微遮断が短い間隔で切り替わり、外からの戻りがずれる。
こはるの拍はそれに同期して、私たちの出入りを合わせてくる。
私はレンチで縁の固定を増やし、触手が食いつく角度だけを整える。
燈ちゃんはリング縁の踏み替えに合わせて刃を置き、柊さんは返しの衝撃を切る。
クロエちゃんの誘導は狭帯域のまま、子供たちを外へ流す。
雷蔵君は押し出し、足場を踏み締め続ける。
外周は白と黒で渋滞し、内側は静かな輪を保てていた。
『残り40秒』
ヴォルテールは雷を失って重い。
だが、切り返しに余白がある。
「視界を落として、奴は立たせたまま無力化だ!」
葵君の指示に、私はストラップの残りを落とし、面の可動を殺す。
ヒンジは触らない。固定点だけ外す。
手首の留め具を一つずつ抜き、握りの戻りを遅らせる。
肩ロールの留め具は柊さんとクロエちゃんの一撃に合わせて落とす。
「右膝、内側」
葵君の指示に燈ちゃんが軽く止め、雷蔵君が体で壁側へ寄せる。
背が壁に触れる。逃げ道は私たちが塞いでいる。
『残り30秒』
ヴォルテールの面は片側でぶら下がり、肩の回転は止まり、手の握りは遅い。
こちらは拍が揃い、浅い呼吸で出入りできる。
私はレンチで面の下辺を押さえたまま、肩と手首の固定を維持する。
燈ちゃんと柊さんが三方向から入って離れ、クロエちゃんが要点を締め、雷蔵君が圧をかけ続ける。
ヴォルテールは立っているが、もう選べる手が少ない。
外周では、ドールズと触手が外へ流され、輪の外で滞留している。
リングの内では、呼吸と拍が続いていた。
「圧、上げてきた。拍、さらに短く」
葵君の指示にこはるが短く答える。
「分かった!」
こはるがテンポを上げる。
私はフックの向きを微調整し、引けば締まる形だけ残して他を捨てる。
外へ押し出された子供たちの個体は、戻れない。
外周の滞留が目に見えて増えた。
『残り20秒』
右掌が熱い。見下ろすと、皮膚の下に細い輪が淡く光る。
葵君が短く言う。
「予備固定してきたんだ!ゼロまでに成立させれば、Seedへ差し替えられる!」
私は息を整える。怖い。でも、拍は体の芯まで届いている。
こはるが静かに刻む。
「ーーいち、に、今」
外周は白と黒で渋滞しているのに、輪の内側は呼吸と足音だけになった。
私は最後のフックを増やし、噛み合わせを確認する。
「維持、いける」
『残り15秒』
ゾンメルは距離を置いたまま見ている。
背の触手はさらに数本増えたが、戻り道は常に一歩遅い。
葵君が遮断のタイミングを細分化し、こはるの拍がそれにぴたりと重なる。
『残り10秒』
右掌の輪が締まる。握力がわずかに抜ける。
ーー半固定。
「今、決める!素体を“人の代わり”に立てる!」
葵君の指示に従い、クロエちゃんが培養瓶を胸の前に掲げ、宣言する。
「代理を指定するわ!」
瓶の中の素体が赤く光る。
雷蔵君が芯を守り、燈ちゃんと柊さんが縁で侵入を止め、私はフックの角度を最後にもう一度合わせる。
『残りーー5、4、3…』
外周の流れは外へ。内側は空白のまま。
胸の奥で、何かが噛み合う感触がした。
『2…1…』
世界がわずかに静かになった。
『ゼロ……試験条件、満足。生体群調停:成立』
〈Calibration:Surrogate = SEED-03 / Human = —〉
〈Telemetry Spoofing:Leniency Granted(偽装行為/軽減)〉
右掌の輪が冷え、光が消える。握力が戻る。
外周の白い影は座り込み、触手は縁で力を失った。水面の泡立ちが静かに収束していく。
ゾンメルは触手を背に収め、ガスマスクの奥でわずかに首を傾げた。
「収集は十分だ。続きは次で」
そう言い残すと波紋に溶けるように消えた。
ヴォルテールは壁際で立ったまま、腕を下ろす。
雷は戻らない。
「ッチ!つまんねーな」
私たちは一歩も引かず、倒さずに終わらせた。
胸の中に、ささやかなーーけれど確かな安堵が灯る。
アイの柔らかな声でアナウンスが響く。
『第二層合格。審判補正 更新/初期負荷 −18%/監視ログは審理へ送致します』
こはるの拍が静かに止む。
葵君が端末を閉じ、雷蔵君が肩でうなずき、燈ちゃんがナイフを収め、柊さんが扇を畳む。
クロエちゃんは空になった培養瓶を見つめる。
私はレンチを下ろした。
右手の奥の熱が、ようやく落ち着く。
白い鏡が開く。
「行こう」
私は言う。
誰も反対しない。
乾いた輪を離れ、第三層ーー神鏡の本審へ歩き出した。




