試験再開
柊さんの腕の中で、クロエの瞼がゆっくりと開かれる。瞳の色はーー
左右の瞳は、それぞれ水色と琥珀色。
その境界がじわじわと混ざり合い、中心で翡翠色へと変化していく。
そして綺麗な黒髪の右半分が、すうっと銀白に変化していく。
左半分が漆黒、右半分が銀白に染まる。
「…これは…!?」
柊さんが驚きを隠せない表情で、腕の中のクロエを見つめる。
「…ねえさま…泣かないで…」
クロエの細い指先が柊さんの頬を撫で、涙を拭う。
「栞!お主…記憶が…!?」
震える声で、柊さんがクロエの両肩を掴む。
まっすぐにその顔を覗き込んで、かつての妹の面影を探すように。
クロエはその呼びかけに、ほんの一瞬、困惑したように目を細めた。
だが次の瞬間、瞳に淡い決意の光を宿し、そっと口を開く。
「……私はクロエ。けれど……ある意味では、栞でもあるの」
静かなその言葉に、柊さんの瞳が揺れた。
「……お主は…本当に…栞なのか……?」
クロエは視線を伏せ、まるで自分の中を確かめるように語り始めた。
「わたしは、柊栞の遺伝子情報をもとに造られた、複製体ーークロエです」
私たちは、息をのんだ。
それはあまりにも静かで、けれど心の何処かで分かっていた、重い真実だった。
「でも、記憶は……柊栞の記憶も、確かにわたしの中に在る」
彼女の漆黒だった髪は、今は黒と白のツートンになっている。そして、その瞳は琥珀と水色が混ざり合った翡翠色。
それはただの外見の変化じゃない。二つの魂が、ひとつの身体に宿った証そのものだった。
クロエは、ゆっくりと立ち上がった。
戸惑いの気配をまだ纏いながらも、その背中には確かな“意思”が宿っていた。
「……わたしはクロエ。けれど、柊栞でもある。
姉様のことも、あの記憶も、すべて……ちゃんと、覚えてるの」
柊さんは、微かに震える手でクロエの手を取った。
そのまま、まっすぐに翡翠色の瞳を見つめる。
「……お主の名はクロエじゃ。じゃが、その中には、たしかに栞もおる。」
「妾が眠らせた、妾の大事な妹……その命が、こうしてまだ、ここに……」
柊さんの声は、震えていた。
長い時を越えた痛みと、赦しと、再会のぬくもりが、そこにあった。
クロエは、そっと微笑む。
どこか儚げで、それでも芯の通った、優しい笑顔だった。
「……姉様。ありがとう。わたしを……あのとき、殺してくれて。」
「わたしはね、ずっと信じてたの。いつか姉様が……迎えに来てくれるって」
柊さんは声を震わせながら答える。
「……栞……。辛かったろう、寂しかったろうに……
すまん、すまなんだ……妾が……助けてやれなんで……」
柊さんが、クロエを胸に引き寄せた。
その胸元に顔を埋めたクロエも、静かに両腕を回し、そっと抱き返す。
「ううん、責めてなんていないの……わたしは、幸せだったよ。」
その言葉に、柊さんの瞳から涙がこぼれ落ちた。
クロエは顔を上げ、柊さんを見つめながら続ける。
「姉様みたいに、誰かのために生きたいって……そう願えたことが。だから姉様、もう……自分を責めないで。これはわたしの、ワガママだったの」
ただの人工体でも、ただの記憶の器でもない。
柊栞の想いと、クロエの意志ーーその二つが、ようやくひとつになった瞬間だった。
ーーヴヴヴ……
静かな時を切り裂くような、不快な「ノイズ」が辺りに満ちる。
空気が歪むように空間の一部が蠢き、黒衣の影が出現する。
「ーークロエ03…この出来損ないが…」
ゾンメルが、ゴーグルの奥に怒りの念を宿した瞳をギラつかせながら言う。
「人格の統合……? くだらない。そんな低次の感情で、私の支配を逸れるとでも?」
クロエの表情が凛と引き締まる。瞳がゾンメルを射抜いた。
「もう、あなたの声は届かない。私はわたしを取り戻した。あなたが何を命じても、従わない」
その瞬間、空気が一気に張り詰める。
ゾンメルの声が冷たく、無機質に落ちる。
「なるほど、確かに枷が外れた様だな。ならば……処分するまでだ」
指を鳴らすと同時に、床の一部がせり上がり、装甲に覆われた転送ゲートのような装置が姿を現す。
「本来、お前は備えだった。だが、失敗作は不要。今この場で廃棄処理する」
「……来るぞ!」
雷蔵君が叫び、柊さんがクロエを庇うように前に出る。
私は銃剣を、こはるはナイフを、それぞれ構える。
ゾンメルの足元から黒い霧が渦巻き始めたーーそれは、明らかにただの転送ではない。
「さあ、最後の選別を始めよう。君たちが価値ある魂かどうか、私自身が測ってやる。ついでにそこの失敗作の廃棄処理も行おう」
ゾンメルの周囲に渦巻いていた黒霧が、突如として異なる質の気配を帯びた。
空気が、ざらつくような感覚に変わる。
温度も、音も、光さえも、奇妙に歪んでいく。
「……来たか」
ゾンメルが言ったその瞬間、霧の中心――闇の奥から、音もなく彼女が姿を現した。
闇に溶け込むような、漆黒のボディスーツと黒衣。
長く垂れる髪、仮面のように無表情な顔。
目元には、まるで他人の夢を映すような、静かな薄笑い。
「お久しぶり、と言うには早い再会ね。澪、柊。そっちのお二人は初めまして、ね」
低く、柔らかく、どこか眠たげな声音。
それでいて、耳元に囁くように侵食してくるその声は、聞くだけで思考の輪郭がぼやけていく。
柊さんが、わずかに眉を寄せて身構えた。
「ネリス……!」
雷蔵君が低く唸る。
「なんじゃ、ありゃ……。けんど、こっちの味方っちゅうワケでもねぇがや……」
ネリスは返事をしなかった。代わりに、一歩前へと出る。
その足音と同時に、世界が「歪んだ」。
廃棄施設の壁も、床も、天井も。すべての輪郭が溶けるようにぼやけ、まるで水の中にいるような幻惑感が空間を満たしていく。
「これは……!」
こはるが叫ぶ。わたしは目を閉じ、即座に視覚を遮断するように目を伏せ、皆に告げる。
「精神干渉空間よ!皆、意識をはっきり持って!」
「うふふ…、目を閉じたくらいでは私の【反響領域】からは逃れられないわ…」
ネリスの声が、背後から響く。だが振り返れば、今度は前方からも彼女が現れる。
三方から笑みを浮かべるネリス。どれが本物か分からない。視覚も聴覚も、情報としての価値を失っていく。
「貴方たちの心が生む“歪み”を、私に見せて。魂の質量を、覗かせてちょうだい…」
その瞬間、頭に一閃の痛みが走った。
柊さんは膝をつき、こはるが耳を塞いでうずくまる。雷蔵君も呻き声をあげながら、咄嗟に背中の壁へと叩きつけて自我を保とうとする。クロエは何とか堪えている様だ。
わたしはーー
「効かないわ。前にも、やられたからね」
頭痛は続いているが、耐えられない程では無い。わたしは幻影すら穿つようにと、真っ直ぐにネリスを睨む。
「精神耐性テストの“再演”……これは、選別の一環なんでしょ?」
ネリスの表情が、かすかに揺れる。
「ーーやっぱり、面白いわ。貴女…」
ゾンメルが一歩前に出て口を開く。
「幻想の刃が心を裂き、恐怖が本質を炙り出す。選別に最もふさわしい試練だ」
クロエがダガーナイフを手に、身構えながらハッキリと自らの意志を示す。
「あなた達の好きには…させない!」
ネリスはゾンメルを一瞥し、再び笑った。
「あらぁ、お人形さんが頼もしいわねぇ」
フフフと声を漏らし、目を細め私たちを見る。
「私にとっては、ただの観察よ。壊れゆく心が、どこで悲鳴を上げるのか。どれほど美しいか、知りたいだけ」
幻影の世界が、再び回転を始める。
心象と現実が入り混じる、悪夢のような空間。
ネリスの干渉領域「反響領域」は、すでに形成されていた。
そして、ゾンメルとネリス、四天王の二柱を相手に、私たちはこの試練の真の意味に直面することになった。




