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揺らぎ

視界が揺れる。


空気の重さが、少しずつ引いていく。

ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた灰色の壁、軋む鉄骨の天井、冷えた機械音が戻っていた。


「……帰って、これた……」


反響領域は消えた。

意識を飲み込んだ幻影の渦は、現実の地面の上で掻き消えていた。


柊さんはすでに目を覚まし、立ち上がっていた。

その瞳にはわずかに安堵の色。だが気を抜いた様子はない。


「気をつけい。終わってはおらぬぞ、澪」


言葉の直後、影が動いた。


「まあまあ、二人とも無事ご帰還ってところかしら?」


コンクリートの柱の陰から、ネリスが現れる。

黒衣の中でゆったりと歩きながら、どこか満足げな微笑みを浮かべていた。


「感想は? 反響領域って、なかなか面白かったでしょう?とくに柊さん、あなたの脳波の揺れ、すっごく興味深かったわぁ」


「お主……」


柊さんが扇を開く。

だが、ネリスは一歩も引かない。ただ、指先をひらひらと振った。


「まさか、あんなに愉しく遊んだ後にまだ戦う元気があるの?凄いわねぇ、ただ、残念なんだけど、私は今戦う気分じゃないのよぉ」


まるでお茶会での会話の様に、微笑を浮かべ片頬に手を当てながら、困った様にネリスが言う。神経を逆撫でする。この女は……許せない!


「……じゃあ、何をしに来たのよ」


自分で思っていた以上に低い声が出る。

怒りと、恐れと、自分自身への嫌悪が、微かに混ざっていた。


ネリスは、ずうっと目を細めて言う。


「見に来ただけよ。あなたたちが、どこまで引きずられて、どこまで抗えるか」


そして、背を向けながら言う。


「でも、もう充分よーーデータは取れたから」


「なっ…!?」


私が声に詰まるのとほぼ同時に、彼女の体はまるで夜霧のように崩れ闇の中へと溶けて消えていった。


残されたのは、冷えた空間と、私たちの鼓動だけだった。


------------


ガラス張りの壁に囲まれた、無機質な円卓。

光は天井から間接的に照らされ、どこにも影を作らない。


そこの中央席には、法衣のような上着を纏い、仮面をつけた中性的な人物ーー鏡心。


その左右には、ゾンメルとネリスが控え、少し下がったところにクロエが佇む。


「ヴォルテールは?」と鏡心が尋ねた。


ゾンメルが端末を軽くタップしながら答える。


「候補生との交戦で脳幹に過負荷。雷撃の反動もあり、再起には時間を要します。」


中央のモニターに、全身にチューブをつながれたヴォルテールと、その周辺で慌ただしく動いている治療マシンの様子が映し出される。


「現在、修復室で強化セラミックによる神経再接続処置中」


「ふっ、あの男、無駄に出力を盛りすぎるのよね」


ネリスが少し侮蔑の籠もった声で笑う。


鏡心は静かに息をついた。


「それで。ーー彼女は、やはり映らなかったのか?」


鏡心の問いにネリスが頷く。


「はい。反響領域の記録映像を見ても、彼女だけは終始存在が曖昧でした」


ネリスはモニターの表示を切り替えながら、そのままの調子で言葉を続ける。


「まるで、現実の位相に乗っていない。光が通らないガラスみたいに。鏡の中にも、まったく姿が映りませんでした」


数値とグラフを表示されたモニターを指し、満足気に説明をする。


「"Arche"の因子反応?」


短く質問するゾンメルに、モニターの数値を見つめながらネリスが答える。


「おそらく、以前の干渉で因子が中核神経系と位相ズレを起こしてるわ。意識は今、常に“半歩こちら側”から浮いている状態ね。」


「…つまり?」


鏡心が促す


「いわば、実在しながら非存在してる状態です。その為鏡にも映らないかと。」


「不安定ではあるが……それは、同時に“自由”でもある」

鏡心がぽつりと呟いた。


「データは充分取れたのかい?」


「ええ。澪の感情が極限まで煮詰まる瞬間も、柊が自我と記憶をどう守ろうとしたかも、

全部、保存済みです。あとは……調整次第、と言ったところでしょうか」


鏡心は椅子にもたれ、指先を組む。


「このまま進めよう。“境界の外側”に辿り着けるならーーもう少し、この試験は続ける価値がある」


ネリスとゾンメルは、黙って頷いた。


そして会議室の中、鏡のように磨かれた床にはーークロエの影がゆらゆらと揺らめいていた。



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