落ちた鉄
廃工場の天井に、風の音が低く鳴った。
冬の始まりにしては温い日だったが、葛城巌の背を這う汗は、冷たかった。
鉄工所の片隅に据えられた古い溶接台の上、巌は黙々と錆びた器具を磨いていた。
かつてここには十人以上の職人がいたが、今や灯りがつくのはこの一角だけだった。煙突からはもう何年も蒸気は上がっていない。
「……もう、売るもんも無えな」
ぎし、と錆びた棚を押し、最後の工具一式を紙箱に詰める。
取引先の倒産に連鎖し、資材の入荷も止まった。商工ローンの返済期限も、昨日で切れた。光熱費さえ分割払い。
澪の高校進学も迫っていた。「大学に行きたい」と言っていた笑顔が脳裏を過る。
巌は、工場の隅に腰を下ろし、ゆっくりと煙草をくわえた。
何十年と、油と鉄と汗の匂いにまみれて生きてきた。
ここは、誇りだったーー
みさきが家を出るまでは。
「……みさき」
呟いた途端、胸の奥に古い痛みが甦る。
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娘が出ていった日のことを、今でも忘れられなかった。あいつは泣きながら家を飛び出し、それきり音信も途絶えた。
だが、あの初夏のある日、事故の1週間ほど前ーー突然、娘は小さな女の子を連れて戻ってきた。
十数年ぶりに見る娘は、やつれていた。目の下に隈を浮かべ、小さな少女の手を握っていた。
「この子を、お願い……誰にも言わないで……いまは詳しい事は話せない、落ち着いたら説明するから…」
それが、みさきと交わした最後の言葉だった。
「いまは」も、「説明する」も、もう届かないまま。その言葉の裏に、何が隠されていたのか。
今はもう巌に、知るすべがなかった。
澪のことを、最初から可愛いと思えたわけではない。それでも巌は澪を育てた。
当初は苦々しい気持ちが有った、だが、少女が次第に巌を「じいじ」と呼ぶようになった頃、その感情は徐々に解けていった。
みさきの面影を宿しながら、全く違う輝きを放つ子。
“形見”ではなく、新しい命だった。
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その澪が今、進学を控えている。
毎日、家事も手伝い、遅くまで勉強していた。
巌には、自分の孫がとても「普通の女の子」には思えなかった。だが、それはきっと気のせいなのだと思ってきた。
だがーー
「……葛城さん。G.E.A.R.って、聞いたことありますよね?」
その男ーー河中と名乗る中年は、まるで一冊の台本をなぞるように言葉を並べた。
地元の金融屋かと思いきや、どうも違う。背後に何かがいる。巌の直感が警鐘を鳴らしていた。
「澪ちゃん、あの子には“光るもの”がありますよ。Y.A.T.A.も注目してます。今なら、G.E.A.R.選考試験への特例参加ーーええ、もちろん推薦枠で!」
「ふざけんな。ガキを売るようなマネ、できるかよ」
「売る?とんでもない。これはチャンスなんですわ。進学も保障されるし、何よりーー葛城さん、借金、帳消しですよ?」
巌は、拳を震わせながら立ち上がった。
「……どこで、俺らの情報を手に入れた。誰に頼まれた」
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河中の何度目かの訪問の際、満面の笑みを浮かべたまま、鞄からタブレットを取り出した。
そこに表示されたのは、無機質な通話画面と、重々しい“仮面のような顔”。
「葛城巌氏、初めまして。我々はY.A.T.A.中枢情報機構、分析管理局です」
巌は背筋を強張らせた。
「……おまえが、“上”か?」
画面越しに男はうなずいた。
声は冷えた金属のようで、感情というものがそぎ落とされている。
「機密保持の観点から、私は名乗ることが禁じられております。何卒ご容赦下さい。我々は貴方のお孫さん、葛城澪という存在に、深い関心を寄せています。」
「遺伝子スキャンの初期データに、特異な適性因子を確認しております。初期プロトタイプとの反応がーー」
「やめろ……そんなもん知りたかねえ……!」
巌は叫んだ。だが、男の声は止まらない。
「澪さんは我々の"再創造プロジェクト”の鍵足り得る存在です。」
「…鍵?」
巌の問いに男は満足そうに頷く
「ええ、そうです。澪さんを、このままそこに閉じ込めておくのは、人類にとっても損失です」
巌は唇を噛んだ。
「……あいつは、みさきのーー」
「ええ、朝倉みさきさん。かつて我々の研究開発チームに関与していました。残念な事故で惜しい人を亡くしました。心中お察し致します」
男は一拍置いて、静かに告げた。
「ーー研究記録の深層に、“朝倉みさきさんの痕跡”が、残されている可能性があります」
巌の心臓が、僅かに跳ねた。
「なに……?」
「お孫さんによりこの研究が進めば、そのアクセス権限を特別に提供しましょう。記憶の記録――レゾナンスファイルに、あなたの娘さんの記憶が保存されている可能性があるのです」
それは、あまりにも甘美な悪夢だった。
死んだと思っていた娘が、“記録の中に生きているかもしれない”。
「……娘を蘇らせることができる、と?」
男は微かに唇を歪める。
「正確には、"記録に触れる手段”です。彼女の魂の断片ーー残響は、深層記録に眠っています。そして澪さんの中に鍵がある」
「……そんなもん、夢物語だろうが」
「夢ではなく、“技術”です。あなたはその目で見てきたはずだ。我々の“結果”を」
巌は、深く座り込み、手を顔にあてた。
(ーー澪を、連れていかせるのか? あの子に、また苦しませるのか……?)
だが、それでも。
もしかしたらーーあの時は聞くことが出来なかった言葉の続きを、知ることが出来るかもしれないーー
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数日後、河中が再び現れる。彼の口ぶりは更に馴れ馴れしく、背中に取り憑いた影のような滑稽さすらあった。
「だからね、これしか無いと思うんスよ!私は」
……苦しみ、迷い、そしてその時にはもう、巌の中で答えは出ていた。
あの子に再び"逢える"のならーー




