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反響領域

クロエの姿が、子供たち(ドールズ)と共に闇に消えた後、私はその場に立ち尽くしていた。


漆黒の仮面越しに見えた顔――微かに震えた指先、あれは確かに…研究室で見た、柊さんの妹、栞ちゃん面影だった。

けれど、栞ちゃんは怪物になってしまい、柊さんと私たちで葬ったはず……何故…?


「……行こう。ここに留まっても、答えは出ん」


そう言った柊さんの声は、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

私はうなずき、次の通路へと足を踏み出す。


階段を下りると、視界の奥がわずかに揺れた。

どこか、違和感。光が曇っている。音の響きが鈍い。


「……空気が、変わった…?」

私は立ち止まり、柊さんを見た。


「ん。感じるな。これは……」


柊さんが言いかけたその瞬間だった。


ーーカンッ。


乾いた音が、背後から響いた。


「え……?」


私は、思わず振り返った。

そこには、誰もいない。けれど、音は確かに聞こえたのだ。


しかもーーその音に、覚えがある。

記憶の底で、何度も聞いた。誰かの部屋で。誰かの髪飾りで。……いや、もっと近くで。


「柊さん、今の音……」


「聞こえたな。……くそ。もう始まっとる」


柊さんは小さく舌打ちし、鉄扇を手に構えた。


「わしら、結界に入ったようじゃ。これは…何らかの干渉領域じゃ…!」


「領域……?」


「この中では目も、耳も、あてにならん」


その言葉を聞いたとたん、

足元の床が、すうっと沈み込むような感覚に襲われた。


「あっーー!」


私はとっさに柊さんの袖を掴んだ。

しかし、その指先が、すり抜けた。


「……え?」


気づけば、私は白い空間に居た。


鈍い鼓動の音だけが、自分の耳に響いていた。


------------


ーーここはどこだろう?


足元も、空も、見えない。音もなく、ただ深い水に沈んだような圧迫感だけが身体にまとわりついてくる。

息ができているのかすら曖昧で、意識が、じわじわと溶けていく。


誰かの声が、遠くで囁いた。


「……澪」


柊さんの声だ。だけど、違う。あんなに力強かった声が、まるで芯を失ったように、脆くて……壊れかけている。


私は手を伸ばす。けれどその姿は見えない。指先に触れるのは、冷たい空気だけ。


ここにいるのに、届かない。


「ようこそ、《反響領域》へ」


女の人の声が響く。妙に冷たく、感情のないトーン。だけど、耳の奥に染みこむように染まってくる。


「ここではあなたという存在が剥がれていくの。名前、記憶、役割……そして、意思も」


------


白い世界のどこかで、無数の影が立ち上がる。私の顔をした私。柊さんの顔をした柊さん。


でも、違う。目が空っぽだ。その瞳には何も映していない。


「やめて……っ」


震える声が出た。私の声だ。声が届く。まだ、意識がある。


「柊さん、どこ……?」


「――わしは、ここじゃ……」


それは本当に小さな声だった。でも、たしかに聞こえた。


私は振り返る。そこにいた。膝をつき、肩を上下させて呼吸を整える柊さん。顔が見えない。その背中が、いつもより小さく見えた。


「……柊さん!」


「近づくでない!」


鋭い声に、足が止まる。


「今のわしは……わしでおる自信が、ない……」


柊さんの言葉が胸に刺さる。

あの柊さんが、こんなにも弱い声で、こんなにも自分を責めるような目で、語っている。


「なぜ……」


私は、言葉を飲み込んだ。


「ここ…この領域は精神を侵す。過去と今を、意識と無意識を、感情と記憶を、すべて混ぜ返して…」


柊さんが、歯を食いしばりながら頭を押さえ、何かに堪えているかのように言葉を絞り出す。


「栞が、見えた。あの子が、笑って……わしに、助けてと……」


その名前を、私は知っている。柊さんの妹。Y.A.T.A.の実験により異形の怪物に作り変えられてしまった、可哀想な女の子。そして…


ーーちりん


静寂の空間に、小さな鈴の音が響いた。まるで、風がないはずの空間を割るように。


「……この音は……」


柊さんの顔が、はっと変わる。


その音に応えるように、目の前の影たちが、一斉に歪む。黒い靄が渦巻き、輪郭が崩れ、悲鳴のような音とともに弾け飛ぶ。


「これは……記憶じゃない……」


そう。これはーー意志だ。


誰かの思いが、残響のように、この空間を揺らしている。


「栞……お主、まだ……わしを覚えておるのか」


柊さんの声が震える。けれど、今度は、誇りに満ちていた。


「澪」


「……はい」


「わしは、もう大丈夫じゃ。行こう。ここを超えて、必ず妹を…」


白い世界に、亀裂が走った。空間がゆっくりと軋み、視界が反転する。


光が差す。その中に、もう一度聞こえた気がした。あの、小さな鈴の音が。


ーー栞ちゃん。


白く、静かな空間に残るのは、最後の微笑みだった。

髪が風に揺れ、音もなく崩れるように消えていくその姿に、私は何も言えなかった。


「……またね」


私の口がそう動いた時、視界の端に紅が灯る。

柊さんの真紅の瞳が、しっかりと前を見ていた。


「行こう。もう、ここに居る理由はない!」


彼女の鉄扇が空を裂き、白の世界に一筋の亀裂を入れる。


風が吹く。

懐かしい、焦げた金属の匂いと、どこか潮のような空気。


視界が回転するーー重力のある世界へ、私の意識が落ちていく。


ーーG.E.A.R 中央管制・実験隔離区画


呼吸が…胸が、苦しくて。肺が焼けるようで。体が鉛のように重い。


それでも、私は目を開ける。

視界に飛び込んでくるのは、紫がかった非常灯と、ひび割れた壁面。


「……もどった……?」


喉が乾いていて、声が掠れた。でも確かに、ここは、現実。


「……澪、大丈夫か」


柊さんの声が聞こえる。鼓膜を撫でるような、微かな震え。


振り向くと、柊さんも座り込むようにしていて、白い肌にはうっすら汗がにじんでいた。

彼女も、限界だったのだ。


私は、こくりと頷いてから、隣に腰を下ろした。


「……栞ちゃん、いましたね」


私の呟きに、柊さんはゆっくりと目を閉じる。


「……お主が、見つけてくれたのじゃ。わしだけでは、きっと……たどり着けなかった」


それは、静かな感謝の言葉だった。

しばし、私たちは何も言わず、残響のように続く余韻の中に身を委ねていた。


だが、その静寂を破るのはーー


「……残念ね、せっかくの記録が取れなかったわ」


冷たい声。

そう、まだ敵を倒した訳では無いのだ。


実験装置の背後から、黒衣の女性が、音もなく現れた。


「わたしはネリス、4天王なんて呼ばれているわ。さぁ、ここからが本番よ。あなたたち、どれくらい現実(こちら)で踊れるのか、見せてちょうだい?」


彼女の仮面が、光を反射する。

黒い影が揺れ、殺気が現実へと染み出していく。


私は、立ち上がる。

震える膝を無理やり伸ばして、柊さんの隣に並ぶ。


「まだ……終わってない。終わらせてない……!」


私の中に、確かな怒りと、痛みと、そしてーー守るべきものの温度が、ある。


------------


爆ぜるような光の歪み。

その中心に、ネリスは立っていた。


艶やかな黒のボディスーツの上に、医者が着る様な白衣を纏っている。但しその白衣は漆黒だった。言うなれば黒衣だ。冷え切った瞳で見つめる。


「実験は、始まったばかりよ。感情と認知の交差ーーそれを、壊してあげましょう」


ネリスの指先が静かに振るわれた、その瞬間。


「ーーえ?」


空気が歪んだ。いや、違う。世界そのものが、崩れたのだ。


私は確かに、そこに燈ちゃんの姿を見た。

赤い癖っ毛を後ろで1つにまとめ、勝ち気なその瞳には燃えるような意志を宿し、こちらを見て笑っている。ーーあの時、涙を浮かべながらも、笑って消えていった彼女。


「……澪、やっと会えたな」


声も、そのままだった。


思わず踏み出しそうになった足を、私は床に釘付けにする。


「…偽物じゃ」


隣から、柊さんの声が鋭く響く。けれど、柊さんの視線も、どこか揺らいでいた。


「……ねえさま……?」


その声に、私は戦慄した。

柊さんの前に立っていたのは、まだ子供の姿の栞ちゃんだった。


白い髪、大きな翡翠色の瞳。ーー澄み切っていて、なにも知らない瞳。


「ねえさま、どうして置いていったの……? ずっと、待ってたのに……」


その言葉に、柊さんの指がかすかに震える。


「幻覚だ、わしが教えた通りの舞をしておらぬ……栞は、もっとーー」


その声に、自分自身を納得させる響きがあった。

だけど、ネリスの干渉はそれだけで終わらない。

視界が幾重にも折りたたまれるように揺れ、

次々とが現れる。


燈ちやん、葵君、おじいちゃん、そしてーー笑って手を伸ばす母の顔


「う、あ……ッ」


思わず息が詰まる。心が、空っぽになるような恐怖。痛みよりも深い、空虚。


「ねえ、澪ちゃん」


幻の母は、私の頬をなぞるように微笑んだ。


「私のために、生きてくれる?」


「やめて……やめてっ……!」


私は目を閉じ、叫んだ。

その声を裂くように、柊さんの鉄扇が風を切った。

耳元で風圧が震え、破砕音が鳴り響く。


「ーー目を閉じるな、澪! ここは(うつつ)じゃ!」


刹那。幻影たちは霧のように崩れ、舞い散った。


目の前には、ネリスの姿だけがあった。微笑みながら、次の手を構えている。


「良いわぁ…とても良い反応ね。じゃあ、もっと深くまで引きずり込んであげましょう…」


彼女の義眼が光る。


「これが、反響領域。あなたたちの現実を、上書きするのよ」


背後から立ち昇る、無数の光と影。

これはもう、幻覚ではないーー認知そのものへの攻撃だ。


私は目を見開いた。

恐怖と痛みの奥に、確かに怒りがあった。


「……私の大切なものを、あなたの実験なんかに、使わせない」


私は構える。

柊さんも、隣で鉄扇を翻し、姿勢を低く落とした。


「そうじゃな。ここから先は……わしらの領域よ」

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