泡沫
重く密閉された隔離室の奥、強化ガラス製培養槽が、淡く緑色の光を放っていた。EVFーゾンメルがエンハンスド・バイオティック・フォーミュラと呼ぶ培養液が、コンテナ内でわずかに揺れている。液中には、黒髪の少女が静かに浮かんでいた。
クロエーー柊の妹、栞の遺伝子データを元に作られたコピー体。
その身体は裸のまま、無数の生命維持用チューブに繋がれ、細い四肢の各関節や胸部、首筋、そして後頭部にまでも極細の管が挿入されていた。表皮には微細な亀裂がいくつも走り、特に顔面左側ー仮面が吹き飛ばされた部分は、露出した合成神経と筋肉線維が、白く薄くただれていた。
クロエは……どこか、遠い場所で、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
けれど、それは音ではなかった。色だったのかもしれない。あるいは、温度だったのかもしれない。
(誰……?)
意識の奥底。何もない闇に、ぽつりと灯る紅の記憶。──それは、音だった。鈴の音。高く澄んでいて、胸の奥を締めつけるような、どこか懐かしい音。
『ねえ、さま……』
(……誰、だれ……いまのは、誰?)
声が響くたびに、焼けるように痛む。こめかみが軋む。思い出そうとするたびに、背後から冷たい刃のような痛みが襲ってくる。
目の奥に、黒い仮面が貼りついている。
(いや……やめて……! やめ……)
何かが、外れかけていた。
歯車が狂う感覚。立ち上る焦燥。自分が、自分でなくなるような恐怖。けれどそれ以上に、"誰かを忘れそうになる"という喪失感の方が、ずっと、ずっと恐ろしかった。
ーーその時。
声が、優しく降りてきた。
とっさに手を伸ばそうとした──瞬間。
彼女の表情は虚ろで、閉じたまぶたの奥では小刻みに眼球が震えている。うわ言のように、時折、唇が泡を漏らす。
「…さま……」
その一語がEVF液の中で消え、気泡となって上昇していく。
操作卓の前には、例によってゾンメルが立っていた。端末に映し出される生体モニタには、精神波の波形が乱れに乱れ、赤いアラート表示が点滅している。
「……精神安定度13%。コア同調率22%……か。感情制御アルゴリズムが完全に崩壊しているな」
ゾンメルの手元で、ガラスに面した内壁から医療アームが滑るように展開される。関節を幾重にも持つ金属アームが、クロエの頭部と胸部へと到達し、仮面のデータ端子に接続された。
「仮面からの感情制御信号……もはや送出不能の様だな。仕方あるまい。リセット処置を実行する」
静かに、ゾンメルは仮面の断片を取り除き、代わりに新しいフェイスシールド型制御装置を装着させた。スムーズに皮膚に密着するそれは、額の中央に赤い起動光を灯す。
ずん、とクロエは頭の奥が焼けつくような苦痛に包まれる。光が、赤い光が、意識を塗りつぶす。
(ちが──っ……! いや……まっ……)
赤。赤。赤。
「記憶断絶モジュール投入。感情帯域の冷却処理開始。——プロトコル・ナインを展開」
クロエの身体がびくんと痙攣する。仮面の赤い光が脈動し、神経制御波が全身へと流れ込んでいく。
精神波の波形が急激に沈静化する。
「……これで良い。悲しみも、怒りも、名も要らぬ。ただ、人形のままであればそれでいい」
培養液の色がゆっくりと変化していく。深緑から、黄緑、そしてほのかに金色が混じる色へ。
クロエの目が開かれる。だが、もはやその瞳には混乱も痛みもなかった。ただ、冷たい空洞だけが広がっていた。
「……命令を、どうぞ」
その声は、以前の彼女のものではなかった。
ゾンメルは満足げに口元を吊り上げた。
「そう。お前はただ命令に従えば良い。お前は"私の証明"だ。世界の限界を越える存在」
沈黙が戻るラボで、クロエは再びEVFに身を委ねる。仮面の赤い光だけが、鼓動のようにゆっくりと点滅していた。




