再定義 柊
私の名など、最初から要らぬものだった。
この世界では、名前より先に「力」と「忠誠」が求められるのじゃ。
だが、それでも——
あの子には、名前を持たせてやりたかった。
名を呼ばれ、名を呼ぶというあたりまえを、知っていてほしかった。
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神鏡の間。六枚の鏡に囲まれて、私は静かに腰を下ろす。
まるで結界のようじゃな。
この空間が、記憶の底から何を引きずり出すのか、よう知っとる。
『第四次選考——候補生No.8 柊 再定義フェーズを開始します』
無機質な声。脳に直接流し込まれるような感触。
馴染み深い。あの頃と変わらぬ調子じゃ。
最初の鏡が、白く濁り、像を結ぶ。
古い屋敷。障子の向こう、冬の朝。
雪が積もった中庭で、小さな白髪の少女が舞っている。
着物の裾をはためかせ、笑顔を向けてくる。
「見ててね、姉様!」
(……栞)
か細く儚い声が、胸を締め付ける。
あの子は、何も知らぬまま、清らかな舞だけを覚え、それだけを心の支えにして生きていた。
じゃから私は、その手を血に染めさせぬよう、代わりにすべてを引き受けた。
闇の仕事も、毒の心得も、殺しの舞も。
二枚目の鏡が像を結ぶ。
「私も姉様の様に強くなりたい」
あの子がG.E.A.R.に参加した日。
「お前には戦いは向かん。我の背だけ見ておれば良いのじゃ」
止める術を持たなかった己の無力。
「誰かの力になれるって事、証明したい」
栞の決意は固く、せめてもの守りとして鈴を持たせた。
三枚目の鏡
Y.A.T.A.の実験室。囚われ、名も忘れ、肉を喰らうだけの化け物となった妹。
私の声を聞かず、私の目を見ず、ただ喰らい、肥大化していく姿。
(もう良い。見せるな。見せてくれるな……)
それでも、鏡は容赦なく映す。
目の前で、栞が澪に喉を裂かれ、燃え尽き、消えていく。
その手には、最後まで——
私が渡した鈴が握られていた。
四枚目の鏡の中で、
私はあの子を殺した。
口にせぬまま、背を向け、妹を探す為にとG.E.A.R.へ戻ってきた。
だがそれは——自分をごまかす方便だったのではないか?
(お主は誰じゃ)
鏡の中の「私」が、私に問う。
(名も、素性も、過去も捨て、今さら何を求める)
「……守れなんだ。たったひとりすら」
(ならば、これより何を守る)
「——今度は、失わぬために戦うだけじゃ」
鏡に亀裂が走る。
六枚すべてが砕けると同時に、部屋の空気が一変した。
私はゆっくりと立ち上がった。
名は捨てた。過去も、もう戻らぬ。
だが、今を共にした者たちが、私に“居場所”をくれた。
それだけで、ようやく歩き出せる気がする。
もう一度、この手で守ってみせる。
今度は、誰かに名を呼ばれたまま、生きるために。
たとえ私自身が、再び影に沈もうとも。




