再定義 葛城澪、橘葵
ーー澪の足音が、静まり返った空間に淡く響いた。
鏡のように研ぎ澄まされた床面が、微かに私の姿を揺らしている。けれどそれは、まるで“本当の私”じゃない気がした。
ーー再定義フェーズ。
その言葉が、まだ頭の中にじんじんと残っていた。
意味はわからない。だけど、何かを思い出しかけた気がした。誰かの、声。輪郭。温度。
でも、霧のようにその記憶は指の間をすり抜けていく。
そしてーー
ーー「ようこそ、魂の篩へ」
声が響いた。誰かの口から発されたのではない。空間そのものが喋ったような、人工的な震え。
奥の鏡装置が、ゆっくりと姿を変える。
六枚の鏡が反転し、宙に浮かび上がる。歪んだガラス面が、まるで意志を持ったように私たち一人一人へ向き直った。
そこに映るのは、燈ちゃん、葵君、柊さんーーそして、私。だけど。
「……あれ?」
鏡の一つが、葵君の姿を乱反射して歪めた。
もう一つの鏡では、柊さんが映っていない。
歪みはさらに連鎖して、私自身の像さえもちらつき、途切れ、何かと入れ替わる。
(これ……私たちを“測ってる”?)
次の瞬間、天井に沿って設置された縁のない枠が音もなく開いた。
内部から、無数の扉がせり上がってくる。
どの扉も形が違う。和風の障子のようなもの、鉄格子、古びた木の門、ガラスの回転扉ーーどれ一つとして同じものはなかった。
それぞれの扉に、誰かが吸い寄せられるように視線を落とす。私の足元にも、一つの扉がぴたりと止まっていた。真っ白な、何もない扉。取っ手さえついていない、ただの“壁”のような扉だった。
その瞬間、脳裏に誰かの声が響いた。
(澪、名前を忘れないで。あなたは、消えてなんかいない)
私は、息を呑む。
でもその声の主が誰なのか、思い出せない。
胸の奥だけが、どうしようもなく熱くなる。
鏡が再び、問いかけるように赤く光った。
そして、あの無機質な声が宣言する。
ーー「最終審査、開始。
各自、魂の扉を選択し、自らを定義し直してください」
定義し直すーー
そうだ。私は、何者かだった。その“何者か”を、取り戻さなければならない。消される前に。
私は、目の前の白い扉に手を伸ばした。
(私は……“澪”。そのはず。なら、私は……)
白い扉が、音もなく開く。
その奥には、記憶とも幻ともつかない世界が待っていた。
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人はいつでも一人だ。だから一人で扉をくぐる。
足音が、どこまでも響く。
壁も床も天井も、すべてが鏡のような金属に包まれていた。だが、そこに映るはずの自分の姿は、なぜか歪んでいる。
揺らぐ映像。重ねられた過去。繰り返される無音の記録。
静かに、部屋の中央に一脚の椅子が現れる。
ーー「再定義フェーズ、開始します」
例の無感情な声が頭に響いた。
目の前にある椅子に座った。
そうするように“プログラムされていた”ように、自然に。その瞬間、視界が白に塗りつぶされた。
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気づけば、目の前には病院の廊下があった。
記憶だ。昔の、これは。
ガラス越しに、ベッドで眠る少女。
まだ小さかった自分の両手は、震えていた。
ーー「助からないんだって。君があの時、装置を止めなければ」
父親の声。怒っていた。泣いていた。
いや違う、それは感情の形をした、責任転嫁だった。
論理的に判断しただけだ。システムの過負荷を抑えるために。他に手段はなかった。
ーー「おまえが選んだことなんだよ」
違う。
ーー「他の誰でもなく、“おまえの選択”だったんだ」
違う。
そんな言葉は、無意味だ。"感情”を交えた議論に価値などない。
判断は事実と数値で成されるべきだ。
目の前の少女が、こちらに手を伸ばしていた。
でも、それに応えなかった。
そのとき、それを“正しくない”と判断したからだ。
「再定義を行います」
再び、無機質な声。
目の前に現れたのは、“彼女の幻影”。
「君が決めて、君が見捨てたの。私は間違いだったの?」
「やり直したい?」
「もし、あのとき“抱きしめて”いたら?」
うるさい。
そんな問いは、無意味だ。過去は修正できない。
感情は不要だ。未定義のノイズだ。
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「対象、再定義における受容応答なし」
「構成エラー、核心記録未接続」
「審査不合格ーー候補性No.56 橘葵」
周囲の空間が崩れはじめた。
鏡がひとつずつ、静かに黒く染まっていく。




