姉と妹
あの子ーー栞が生まれたのは、春がまだ浅いころだった。
抜けるように白く、淡雪のように儚げな髪。ふわ、と小さく泣いた顔を見て、思わず手を伸ばしたことを覚えている。
…この子だけは、幸せにしなければいけない。その時、確かにそう思った。
栞は、まっすぐで、優しくて……舞の才に恵まれていた。
見よう見まねで、あっという間に基本を覚え、普通ならば何年もかけて体に染み込ませる動きを、たった数日でやってのけた時には、さすがに驚きと、その才能に少しの嫉妬を覚えたことを忘れられない。
「姉さまみたいになりたい」
そう笑った顔を見て、ぞっとした。
…なってはいけない、と。
我が一族の舞とは、殺しの型。
血の上に咲く花ーーそう教え込まれて育った。
あの子の手を、そのまっすぐな瞳を、血で汚させてなるものか。だから、型だけは伝え、技の真髄は一度として教えなかった。
殺すのは、汚れるのは、自分だけで良い。
あの子が人であるために、我が鬼になる。それが姉の務めだと信じておった。
けれど。
「G.E.A.R.に志願したい」
ある日、あの子がそう口にしたとき―我が耳を疑った。
「……馬鹿を言うな。あそこは、遊び場ではない。実験場じゃぞ? お主に、何ができる。わらわの背中だけを見ておればよいのじゃ…!」
感情に任せて声を荒げたのは、あの時が初めてだったかもしれない。
それでも、あの子は笑っていた。…やさしい、穏やかな顔で。
「私は、お姉ちゃんが背負ってきたものを見てきた。ずっと、守ってもらってた。だから今度は、私が誰かを守る番なの」
…ああ。もう、止められないと悟った。まるで、それが当然のことだとでも言うように。瞳に宿る強さを見て、もう引き留められ無いと悟った。
次の朝、"帰還の鈴”をあの子に手渡した。
「柊家に代々伝わる鈴じゃ。どれほどの闇に堕ちようとも、その音があれば、戻ってこられる」
あの子は、泣きながら笑っていた。
「ありがとう、お姉ちゃん。必ず帰るから」
その笑顔が、まぶしすぎて、見て居られなかった。
ーーそれが、最後に聞く声だったのに。
ーーーーーーーー
既に時刻は朝の6時を回っていた。
戦いの果てに残されたのは、湿った空気と、焦げた硝煙のにおい、そして静寂だった。あの忌まわしき化け物ーー栞の成れの果ては、もうこの地に存在しなかった。
「……終わった、のか……?」
雷蔵君のつぶやきに、誰も返事をする元気が無く、皆座り込み俯いていた。
ただ一人、柊さんは鈴を握ったまま、崩れかけた岩に背を預けたまま立っていた。衣のあちこちが裂け、血で染まっている。息は荒く、口元には乾いた血の跡が残っていたが、その目には一滴の涙もなかった。
彼女の視線は、遠く、誰にも届かない場所を見つめている。
「……妹さん、だったんだね……」
私はそっと近づき、声を掛ける。
「……ああ」
彼女はそれだけを答えた。淡々と。何かを押し殺すように、感情の波を声の奥に沈めて。
「でも、泣かないんだね……」
「泣く必要など、無い」
柊さんの言葉に、私は身を強張らせる。
「我があの子を……栞を、この地獄に送り込んだ。鈴を持たせ"舞の一族"の名を背負わせ…」
ふぅっと息を吐き、続ける。
「それが、どれだけ無残な結果を生んだか、見ただろう」
「……」
私達は誰も声を発することが出来なかった。
「感情など、捨てて久しい。流す涙もとうに枯れておる。我はそれだけのものを背負ってきた」
柊さんの手の中で揺れる鈴が、かすかにちりんと鳴った。私は彼女に語りかける。
「……でも、それでも……柊さんは、助けようとしたよね。栞ちゃんが、あんな姿になっても……止めようとした。鈴で、眠らせようとした。あなたは……見捨てなかった」
柊さんは、少しだけ目を細めた。
「…当たり前じゃ。妹じゃからな。それだけじゃ」
その目にはただただ強く、静かな意志だけがあった。
「我は、ただ果たすだけじゃ。姉として。戦士として。そして、この機構に加担した者として……な」
風が吹き抜け、岩陰に影が揺れた。
「何処へ向かうの?」
肋骨が痛むはずの身体を、まるでそれを当然のように扱って、歩き始める。
「まだ終わりではない。まだ、裁かれるべきものが残っておる」
その姿を止められなかった。
私は、彼女の背中を見つめながら、小さく呟いた。
「…本当に、強い人だね…」
その声が聞こえただろうか、彼女は背を向けたまま、ポツリと呟く。
「これは、義務じゃ」
そう言い残し、彼女は歩き続ける。
鈴が一度だけ鳴った。ちりんーー
それは、まるで別れの音のようにも―あるいは、始まりの合図のようにも、聞こえた。




