未央
ずっと、誰かのヒーローになりたかった。
幼児番組のアンパンヒーローだとか、車に轢かれそうな子供を助ける好青年だとか、医者だとか、警察官だとか、そういうものになりたくてたまらなかった。
未央はこの世のほとんどを愛していた。
アイスが好きだ。変な形の木が好きだ。焼肉が好きだ。幸せそうな老夫婦が好きだ。トマトはふつうだ。
嫌いなものと言えば、生魚くらいだった。
未央はこの世を愛していると思ったことはなかったが、彼女が世界を思う気持ちは、紛れもなく、途方もなく愛だった。
その愛は、母が子に抱くような愛だった。純粋で、世間知らずで、他が介入できない愛だった。
今泉未央、21歳。彼女は、自分がヒーローになどなれないことを既に悟っている。
「ねえ、アイスは?」
夏はアイスに限るし、冬もアイスに限る、と未央は常々感じていた。
アイスはなんだか儚くてかわいくて甘くて、かわいい。キュートなのだ。鮮やかなソーダ色もかわいいし、口に入れる瞬間シャクッと鳴る音もかわいい。
甘い液を摂取したいならジュースを飲めばいいし、お腹がすいたならもっと胃に溜まるものを食べればいい。わざわざジュースをシャクッとした食べ物にする無意味さもなかなか気に入っていた。
「えー、もうないの?買いに行く?」
「ん…」
アイスは食べたいが、腰が重い。外は暑い。暑いと疲れる。未央は根っからの「おうちだいすきにんげん」であった。
瞬き3回分くらい悩んで、1番好きなアイスは無いが1番近いコンビニまで行くことにした。500歩くらい譲歩した結果だ。
陸は、恋人とも友達ともつかない関係の、高校の同級生だった。夏の暑い日にどちらかの家に集合し、買い物は一緒に行くくらいの関係だ。
ただ彼は未央とは違い、この世のあれこれをうっすら嫌っていた。
「あ、ねこ」
ほとんど車が通らない道路のど真ん中を、でっぷりと肥えた白猫が呑気に歩いていた。
猫が人間と同じようにコミュニケーションを取るのだとしたら、きっとこいつは性格が悪いだろう。多分偉そうにふんぞり返っているタイプだ。
「誰かが餌付けしてるんだろうなぁ。車に小便引っ掛けていくし迷惑だっての。こういうのって、誰が対応するんだっけ?保健所?」
未央は、陸のこういうところが苦手であり、愛おしかった。
未央としては、かわいいねえ、おでぶだね〜にゃんにゃんよちよち、といったくらいの感想しかなく、この一瞬でそこまで怒りを盛り上げられる彼が不思議だった。
道路のど真ん中に寝転がり始めたため、これはよろしくないと思い触れても暴れもしないデブ猫を歩道へどかした。
振り返ると陸は顔をしかめており、なんとか梅のCMに出てくるでかい梅みたいだと思った。
「お前、触るなよ、野良猫。汚い」
汚いかあ、と思った。
何よその言い方、と怒る気もなかったし、傷つくこともなかった。汚いかあ、と思っただけだった。だから、なんでこんなことを言ったのか未央にも分からなかった。
もう帰りなよ、自分の家。と自然と言い放っていた。
陸は怒っているような困惑しているような顔で何か言ったが、未央の耳には届かなかった。
いつもシャーベット系のアイスだけど、たまにはチョコにしようかな。目の前を歩いている男性2人組も同じコンビニに行くのかな。あ、まんまるの石。たしかコンビニの裏にでっかい木があった。なんだかパワーをもらえそうで未央は気に入っていた。
人を突き放すのは、人生ではじめてのことだった。
多分未央は、すべてがどうでもよかった。自分に害のあるものも、毒にも薬にもならないものも、はるか遠くの国で飢えている子供のことも、猫が車に轢かれても、猫を助けて汚いと言い放たれても、目の前の男性2人がカップルだとしても、全部全部どうでもよかった。
どうでもよかったけど、全部愛していた。
ヒーローって、そういうものだと思っていたから。
未央は間違っていた。世の中に蔓延るヒーローなんてものは、正義を振りかざして悪の暴力を自分の暴力でねじ伏せ、ヒーロー面しているだけの暴力マシンだ。
車に轢かれそうな子供を助けたところで、自分が轢かれて死んでしまっては遺族のことを鑑みないただのエゴイストだ。
医者や警察はまあ、ヒーローかもしれない。でもやっぱり、ドラマで見るように、裏金とかあるのかもしれない。
夏もアイスも人間もヒーローも猫も、溶けてなくなったって構わないのに。存在している。何のためかも分からないのに、無意味に、純粋に、かわいらしく存在していた。
猫を助けたのは、ちょっとヒーローっぽかったかもしれない。
やっぱりソーダ味のシャクッとするやつにしよう。
全部どうでもいいけど、シャクッとするのはうれしいから。