7. ガザエラの町へ
「一度カザエラにいる薬師に会ってみないか?」
アンセルからそう提案されたのは、お菓子の差し入れをされてからちょうど二週間後のことだった。
修道院の鐘が鳴り響き、昼の時間になったことを知らされる。
この日も週に一度の調薬実習をこなし、本日の先生である副院長と一緒に後片付けをして廊下に出たところだった。ちょうど応接室から出てきた院長とアンセルと鉢合わせる。
「エマさん、お疲れさまでした」
「こちらこそ、今日もありがとうこざいました」
いつも惜しみなく丁寧に教えてくれる院長と副院長にお礼の挨拶をする。そんなやり取りをした後に、アンセルから言われたことがその誘いだった。
「カザエラ……確かクイード家のお屋敷に近い大きな町ですよね。実は一度も行ったことがなくて」
私がそう言うと、アンセルはわかっているといった様に頷く。
「うん、きっとそうだろうと思った。生まれた町から一歩も外に出ないなんてことも珍しくないしね。だから僕が案内しようと思っているんだ」
そう言われれば、薬屋がどのように運営されているのか見てみたい気持ちはある。ここにいる限り、今後も薬師と知り合う機会はないだろうと考えると、アンセルの提案はとても魅力的に思えた。
そんな自分の気持ちを正直に伝えると、いつがいいかと聞かれたので、仕事が休みの日だと助かりますと答えた。
町の広場は週に一度市場が開かれる。そのかわり普段そこで商売をしている私たちは、その日が休日となっていた。
「わかった。ではこちらも調整がついたらまた知らせるよ」
それから更に一週間後、修道院のエルミン院長からアンセルの伝言を教えられ、次の休日にカザエラへ行くことが決まった。
当日、ミルのお水と食事だけ用意をして、いつでも出かけられる準備をして待っていた。なんだかそわそわして落ち着かなく、アンセルが迎えに来るまでの時間がとても長く感じている。
この町に辿り着いてから、私は他の町や村を訪れたことが一度もない。毎日がそこそこ忙しいことも理由のひとつにあるけれど、あまり活動の場を広げたくないという気持ちもあった。
魔女狩りが行われた地から来た人間と知られたくない。そんな思いでひっそりと行きていくことを決めたけれど、こうしていざ新しい町に行くとなったら、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
子供の頃はお出かけが大好きで、月に一度、家族みんなで都市の大きな街に買い物に行くことが楽しみだったこと。
それを思い出して、朝から気持ちが弾んでいた。
「エマ、お待たせ」
ノック音と共に聞き馴染んだ声が聞こえて、私は用意していた大きな布のバッグを持って家を出る。するとミルも一緒にするりと玄関を出て、彼の足に纏わりついた。
「ごめんね、ミル。今日は君のご主人様を借りるよ」
ミルの頭を撫でながらアンセルが話しかけると、ニャンと一声鳴いて草原の方へ歩いていった。
「ミルは本当にお利口だな」
可愛いミルをそんな風に褒められると嬉しい。今日は空も晴れやかで、なんだか良い日になりそうな予感がしている。
二人で街道まで歩いていくと、一台の馬車が近くに停まっていた。どうやらこれに乗ってカザエラに向かうらしい。
「久しぶりです、馬車に乗るのは」
馬が走り出してすぐに、何の気なしにそう話した。昔も、こんな風に馬車に揺られて街に行ったっけ。
「そうなんだ。うちの馬車の乗り心地はどう?」
「そんな、とても比べられるものじゃないですよ。だって私たちが使っていたのは安い乗合馬車で、こんなにお洒落でもなければふかふかの座席もありませんでしたから」
思い返せばあれは固い木の板で、長く座っているとお尻が痛くなるものだった。それでも当時はそんなものだと思っていたし、とても楽しかったけれど。
「そういえば、エマは四年前からこの町に住み始めたんだよね。ここに来る前はどこに住んでいたの?」
そう尋ねられて、自分が余計な事を口走ったことに気が付いた。新しい町に向かうことで、つい気持ちが浮ついてしまった。
「ああ、えっと……」
どうしよう。本当の事を言ってしまってもいいのだろうか。ここ数か月の付き合いでアンセルの人となりというものが何となくわかってきている。彼は優しく誠実だし、そしてとても穏やかな人柄だ。
魔女狩りがあった町から逃げてきた……そう打ち明けてもいいのではと思う一方、彼がその事件の背景を知る貴族であるということに躊躇いが生まれる。
『魔女は悪だ』
自分の事情を話してくれた時の、アンセルの言葉が蘇る。
私は魔女じゃない。でもそう訴えたとしても、彼にその真偽が付けられるはずがない。
「……住むところを転々と移り変わっていたので、町の名前を忘れてしまいました。当時は親に連れられていた子供だったので」
アンセルを信じようとしたけれど、結局は日和ってしまって苦し言まぎれの嘘を口にした。それをどう捉えたのかわからないけれど、彼はそれ以上追及せずに「そうなのか」とだけ言って頷いた。
その後は、これから向かうカザエラの町のことを話しながら馬車に揺られ、気が付けば町の入り口にまで辿り着いていた。
小路に囲まれたメサイムと違い、馬車道のあるカザエラはそのまま中に入っていけるらしい。初めて訪れた町の景色を物珍しく眺めていると、一軒の家の前で馬車が止まった。
「着いたよ、ここだ」
アンセルに手を取られて降りると、『薬屋』と書かれた看板に目が留まる。ここが薬師の家なのかと改めて見上げ、彼の後に続いて店に入った。
カランカランとベルの音が響き、奥から白髪まじりのおじさんが姿を現す。
「ああ、お待ちしておりましたアンセル様。そちらが例のお嬢さんですね」
「はい。以前にも話した通り、彼女は花売りで薬草を取り扱っていますが、調薬とそれを販売する経験がありません。ですから店を営む手順やコツなどを教えてくれると助かります」
「承知しました。……私が店主のハリーです。カザエラで三十年ほど薬師をしています」
おじさんが私にも挨拶をしてくれたので、「エマです。今日はよろしくお願いします」とこちらも頭を下げた。
「ではハリーさん、エマをよろしくお願いします。僕はその間に仕事を済ませて、また戻ってきますので」
アンセルは私に頑張って、と一声かけると店を後にした。
店主のハリーさんと二人きりになると、ではまずは仕事場から見てもらいましょうと家の奥に通された。薬草の保存室と乾燥室、続いて調薬室に案内されて各部屋ごとの説明を受ける。
仕事の全体の流れは修道院でも教えてもらってはいるけれど、広い施設なのであらゆるものが揃っているし、手狭に感じることもない。だからこそ、小さな家での実用的な運営と管理方法を知ることは大いに参考になった。忘れないようしっかりと目に焼き付けながら、各部屋を見て回る。
その他には売り場の裏側や帳簿の付け方などを教えてもらい、さらに私からも質問を投げかけたりして有益な時を過ごすことができた。
「さて、大方のことは話したけれど、どうだったかな?」
「とても勉強になりました。今日学んだことを参考に、自分なりのお店を作ってみようと思います」
私のために時間を作ってくれたハリーさんに感謝の言葉を伝えた。結構長居をしたような気分だったけれど、まだ昼を知らせる鐘の音が聞こえないのでそれほど時間は経っていないらしい。
アンセルもまだ帰ってこないので、私はハリーさんに町を歩いてきてもいいか尋ねてみた。
「エマさんは初めてこの町に来たんだろう? アンセル様が戻られたら説明をしておくから、散策しておいで」
「ありがとうございます!」
私は嬉しくなって、お言葉に甘えて外を出歩くことにした。時間に余裕があれば買い物をしたいと考えていたので、お金は多く持ってきている。
私は店が並ぶ方向へ歩きながら、町を見渡して歩いていく。
こうして見ると、私が生まれ育ったフジムの町と同じくらいの広さがあるようだ。フジムはアルト自由都市の一部ではあったけれど、中心地から離れた郊外の小さな町だった。クイード領の大きな町がフジムと同程度なのだと考えると、アルトがいかに大きく栄えた都市だったのかわかる。
町の中心に向かって歩いていくと、メサイムと同様にこちらでも市場が開かれていた。店先にテントを張って商品を並べていたり、広場の中心に屋台を出している店も多くある。行き交う人々はそれぞれの場所で足を止め、物色したり店員と会話を楽しんだりしている。
私も目移りしながら見て回り、メサイムではなかなか手に入りにくいものを中心に探していった。チーズとバターは欲しいし、それから肉の干物も安いものがあれば買いたい。魚はメサイムでもよく売られているけれど、肉はなかなか貴重だ。
そうして買い物を楽しんでいた私は、市場を出ようとしたところで通りすがりの町人の声が耳に入った。
「ねぇ、またアンセル様が町に来てるんですって」
「いつもふらふらと出歩いて、貴族様はお気楽でいいわね」
「本当よ。ドニスさんなんて、あの方が帰って来たせいで苦しい生活をしてるというのに」
「お気の毒よねぇ……」
なんだか気になる内容に耳を傾ける。アンセル様という言葉につい反応してしまったけれど。雰囲気を見てもあまり良い話ではないらしい。
彼女たちの言う通り、アンセルは私から見てもよく外に出ていると思う。彼はまだ領主代理の見習いで、今のうちに領地のことを把握したいと言っていた。修道院のエルミン院長もそれは理解していたし、私もそういうものかと思っていた。だけど理由を知らなければ、ただ気まぐれで遊んでいるように見えるのだろうか。
でも、ドニスさんとは誰なのだろう。彼のせいで苦しい生活を送っている?
町で偶然聞いたアンセルの評価に、私はどこかもやもやとした気分を抱えながらハリーさんの店に戻っていった。