6. 甘い記憶
アンセルから預かった本は、眠くなるまで毎晩読むことが日課になっていた。
自分がこの仕事を始めるのだと思うと、スルスルと頭に入っていく。新しい知識は目を通すだけで面白く、ついつい時間を忘れて「へぇ」「ほぉ」「なるほど」とページをめくる手が止まらない。
もちろん得た知識を定着させるにはそれなりの努力は必要だけれど、それを苦だと思わなかった。
「エマさん、無理をしていませんか?」
修道院で薬師の勉強を始めてから、そろそろ二か月が経とうとしていた頃。今日の実習を終えて充実した気分を味わっていると、エルミン院長からそう尋ねられた。週に一度だけの貴重な時間に全集中していた私は、思いがけないことを言われて首を傾げた。
「あまり自覚がなさそうね……」
机の上に広げていた薬草や器具を片付け終わると、院長に応接室へと連れていかれた。そして壁に立てかけてある大きな鏡の前に私を立たせる。
そこには、目の下に隈を作り、かさついた肌をした自分の顔が映っていた。
「私、今こんな顔をしてるの⁉」
「わかりましたか? 薬師を目指すというのに不健康ではいけません。しっかりと休息をとることも大事ですよ」
自分の酷い顔を目の当たりにして驚いていると、院長から穏やかな口調で諭された。
確かに寝不足気味ではあったし、花売りの仕事と勉強の両立で身体に負担をかけていた自覚もあった。しかし、まさかこんな酷い顔で外を出歩いていたなんて。
私が自分の姿を見て唖然としていると、ノックもなく応接室の扉が開いた。
「あら、エルミン院長とエマさん。こちらにいらしたんですか? てっきりまだ調薬室にいるのかと」
驚いたような様子の副院長の後ろには、アンセルの姿があった。
「先程実習を終えて、用があってこちらに来ていたのですよ。アンセル様、お待ちしておりました」
「こんにちは、エルミン院長。そしてエマも」
今日は定例報告の日だったようで、院長が彼をテーブルに案内した。
「あの、では私は町に戻りますね」
仕事の邪魔をしないよう、私はそそくさと部屋を出ていこうとした。そんな私をアンセルが不思議そうな顔をして呼び止める。
「エマ、どうしたの。なんだかよそよそしいけれど」
「い、いえ別に何でもありませんから。では私はこれで」
アンセルとは何度かお茶をしていたし、ここでも度々会うこともあった。だからそれなりに親しく会話をする仲にはなっていたけれど、さすがにこんな顔を見せるなんて恥ずかしすぎる。
そういう訳で顔を見ずに立ち去ろうとしたけれど、エルミン院長が余計なことを言ってしまった。
「実はエマさんが疲れているようで心配していたところなのですよ。とても物覚えが良くて学びも早いのですけれど、どうも無理をしているようで」
「いえ、全然無理なんてしていませんから。ただ興味があって好きでやっていることなので。では失礼します!」
私はそう取り繕って、さっさと部屋を出てしまった。もしかしたら失礼な態度だったかもしれないけれど、こんな酷い顔を見られるよりましだ。
私はそのまま町に戻り、ローラさんと一緒に閉店作業を終えてから早めに家へ帰らせてもらうことにした。
今日はローズヒップとチャブラの葉をブレンドしたお茶にしよう。そんなことを考えていると、ちょうどミルも散歩からご帰宅のようで開いた窓から入ってきた。
「おかえり、ミル。食事はもうちょっと待っていてね」
荷物を片付け、菜園に回って一通りの手入れをする。修道院から頂いてきたクロキスも育ちきり、間もなく種を収穫する予定だ。
とりあえずそっちの仕事が一段落したので、ミルの食事に取り掛かる。少量の魚の身と柔らかな豆を混ぜてお皿に盛ると、勢いよく食事にありついた。
「さて……じゃあ私も休憩しようかな」
夕食までの息抜きにハーブティを用意する。まずは、気になっている肌のかさつきと顔色をどうにかしなければならない。
先程考えていた薬草を入れ、カップの中にドライフルーツをいくつか入れる。
お湯を沸かしている間に一息入れていると、玄関の扉がコンコンと鳴った。
「はーい」
急用のお客さんだろうか? 座ったばかりの椅子から立ち上がり玄関を開けると、先ほど会ったばかりの彼が立っていた。
「アンセル様?」
驚いて顔を見上げると、何か困ったような顔をしている。
「突然家に来てごめん、ちょっと渡したいものがあって寄ったんだ」
鏡に映った自分の顔を思い出して恥ずかしくなる。あまり直視されたくなくて、俯き加減でぶっきらぼうにどうしたのかと尋ねた。
すると彼は慌てたようにポーチの中から小さな木箱を取り出し、それを私に差し出した。
「もしかしたら、僕が無理をさせてしまったのかなと思って。これを食べて元気になってほしいと思ったんだ」
どうやらこの箱の中身は食べ物らしい。わざわざ差し入れまでしてくれたので家に招き入れようとしたけれど、首を横に振ってすぐに帰るという。
「今日はこれを渡しに来ただけ。勉強も急がなくていいし、無茶をしないで身体をゆっくり休めてほしい」
アンセルは本当にそれだけ言って帰ってしまった。彼の中では、お願いをしているという負い目でもあるのだろうか。私はただ自分の好奇心と知識欲で突っ走っただけなのだけれど、どうも余計な心配をさせてしまったらしい。
手渡された木箱を開けると、そこには布にふんわりと包まれた焼き菓子が入っていた。
小さなタルトが二つと、四角い形のクッキーが丁寧に入れられている。布を広げたとたんにバターの豊潤な香りと甘い匂いが漂って、家の中が美味しそうな空気に包まれた。
ちょうど準備していたお茶をテーブルに用意して、ひと時のティータイムを過ごすことにする。
小ぶりのタルトを一つお皿に移し、それを一口頬張る。甘みと香りが口いっぱいに広がって、味わうように噛みしめた。
両親と一緒に暮らしていた頃、母は私の誕生日にこんなお菓子を焼いてくれていた。その日だけは贅沢にバターと蜂蜜を使った、世界で一番美味しいタルトケーキ。
アンセルからの思いがけない気遣いと、忘れてかけていた懐かしい記憶。優しい甘さを噛み締めながら、しみじみとした余韻に浸っていた。