2. クイード家
「これはアンセル様。わざわざこちらまで足をお運びいただいて申し訳ありません」
見知らぬ青年に院長が頭を下げて挨拶をしたので、私も見習って形だけ同じように挨拶をした。
柔らかそうな生地の衣服を纏い、町にいる男性とは明らかに違う出で立ち。貴族らしい身なりと院長の態度を見て、これは失礼があってはいけない人だと判断して背筋を伸ばした。
「いえ、僕も薬草園を見学したいと思っていたからちょうど良かった。……隣の彼女は?」
私に視線を移し院長に尋ねる。
「彼女はメサイムの花売りでございます。週に一度、薬草と調合薬を仕入れにこちらまで出向いているのです。そういえばアンセル様は初めてお会いになられますね」
「そうですね、まだこちらへ伺うようになって日も浅いですから」
そう言って青年がこちらを向いた。
「はじめまして、アンセル・クイードです。君の名は?」
「は、はい。私はエマと言います。よろしくお願いします」
クイード……って、まさかこの町の領主様?
名前を聞いて更に緊張が走る。この地で暮らすものなら誰でも知っている、クイード子爵家。この辺りを領地としている貴族様だ。
それにしても随分と若く、私と歳が近いように見えるけれど。
「エマ。僕も度々ここを訪れることになるから、もしかしたらたまに会うかもしれないね。どうぞよろしく」
彼の言葉に私は慌てて頭を下げる。
「エマさん。こちらのお方はクイード子爵家のご令息アンセル様です。この修道院が安定して長く存続していられるのも、クイード家あってのもの。実はこのクロキスも、アンセル様が探して仕入れてくださったのですよ」
「エルミン院長、そのような大げさな紹介は不要ですよ。僕は自分に出来ることをしているだけですから」
少し困ったような顔を見せてから、彼は視線を植物に向けた。
「おや、これがそのクロキスですよね。良く育っているようだ」
「ええ、順調に。私どものお願いを聞いてくださり、アンセル様には大変感謝しております。これからは薬効の高いものを安価で作れますので、きっと領民の助けになるでしょう」
そんな二人の会話を、ほわぁと眺めながら聞いている。
これほど近くで本物の貴族を見るのも、ましてや言葉を交わすなんてことも初めてだ。なんだか現実味がなくてつい見入ってしまう。
しばらくしてエルミン院長は、私に申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね、エマさん。私はアンセル様とお話をしてきます。すぐにサリーをこちらに呼ぶから、彼女からこの種と薬草を受け取って帰ってね」
私が頷いてお礼を言うと、二人は建物の中に戻っていった。
あー、びっくりした。
思わず一人になって呟いてしまう。花売りを始めて何年も経つけれど、今までクイード家の人になんて会ったことがない。
たまたま今回鉢合わせただけなのだろうか。でもさっきの会話を思い返すと、彼はここに来きて日が浅いと言っていた。ということは最近まで彼は来たことがなかったということなのか。
そんなことを考えながらのんびりと待っていると、奥から修女のサリーが私の籠を持ってやってきた。
「エマ、お待たせ。この中に頼まれていた薬草と調合した薬が入っているわ。それからクロキスの種もこの布に包んであるから」
そう言って中を見せてくれた。巾着状にしてひもで結んだものがそうらしい。
サリーは私と同い年で、彼女とも四年の付き合いになる。出会った当時の彼女はここに保護されていた孤児で、エルミン院長を慕ってそのまま修女になった女の子だ。
「うん、ありがとう。クロキスを育てるのに何か注意することはある?」
「そうね……育てるのはそれほど難しくないけれど、最初は多めの水やりを心掛けてね。それからちょっと日照りには弱いみたい。だから植える場所を考える必要はあるわね。それから一年草だから、来年も植えられるように種取りをしてね」
そう説明をされて籠を受け取る。
「参考になったわ、ありがとう。じゃあお代を払うわね。種にはいくら払えばいい?」
「あら、種の代金はいらないわよ。院長から聞いていない? 十分に種を収穫できたから、使わない分を譲るって。ただ、これはアンセル様がわざわざ探して取り寄せてくださったものだから大切に育ててね」
アンセル様と聞いて、そういえばとサリーに尋ねてみた。
「ねぇ、さっき初めてそのアンセル様に会ったのだけど。いつからここに来ているの?」
そう尋ねると、サリーは少し頬を赤く染めて答えた。
「あら、エマは今日初めてお会いしたの? 三か月前からここを訪問するようになって、月に二度はこうして様子を見に来てくださるのよ」
なんだか急に乙女の顔になって、心なしか声が弾んでいるように聞こえる。なので冗談ぽくそれを突っ込んでみた。
「サリー、もしかして彼を気に入ってるとか?」
「そ、そんなことないってば。私は神に身を捧げる修道女ですから。……でも素敵な人を尊敬することは自然でしょう? 院長だけでなく、私たちやここにいる孤児にもお声掛けしてくださる、とてもお優しい方なのよ」
サリーは、ほぅとため息をついて彼を褒め称えた。たしかに言われてみれば、花売りの私など無視してもよかったのに丁寧に挨拶をしてくれた。
「彼はクイード家の四男様で、将来は領主代理人を継ぐらしいの。今は親戚の方がその役目をされていて、その方から仕事を引き継ぐために王都から戻ってきたんですって。今までは役人が事務的に来ていたのだけれど、あの方は私たちを気にかけてくださるの」
「ふぅん。だから今まで会ったことがなかったのね」
貴族のことはよくわからないけれど、たしかに度々院長を訪ねてくる小太りのおじさんがいた。それほど会う機会はなかったし、院長にしか用がない人だったから顔もあまり憶えていないけれど。
これからはその人の代わりに彼がここへ来るようになるのだろうか。
そんな世間話に花を咲かせた後、私は受け取った籠を腕に掛けて店へ帰ることにした。
その日、ローラさんに鎮痛効果の高い薬草の種を貰ってきたことを伝えると、とても喜んで院長にお礼の手紙を書きたいと話していた。
いつも通り午後になってから店を閉め、ローラさんの家で帳簿をつけるお手伝いをしてから自宅に帰る。
「あれ、ミル。もう帰っていたの?」
にゃーんと言いながら足に頭をこすりつけ、間をすり抜けながら歩く柔らかい生き物。
飼い猫のミルは、自由気ままに外を散歩して飽きたら家に戻って来る。今日はお早い帰りのようで、満足するまですりすりしてから足元でゴロンと横になった。
「ちょっと待っててね。今荷物だけ片付けちゃうから」
私はそう言って、持って帰ったクロキスの種を大切に棚の中に仕舞った。