宮田上等兵 5
いくら文明が進もうとも、自然は人間の倫理など顧慮しない。繁茂する植物の生育は、時として鈍重な獣の動きにも劣らぬ速さで所構わず這い回り、自己の縄張りを主張している。来た時とはまた別の道を選んだ及川は、右手に持った大振りの鉈で草木を刈り払いながらずんずん進んで行く。
「あのう、自分は一体どうなるのでしょう?」
「どうなるって?」
「やっぱり、原隊には合流できないでしょうか」
「どうかなー、なにせここはグチャグチャだからね。闇雲に歩いて合流できるなんてことは、まず無いと思うけど」
「そうですよね・・・」
「まあ取り敢えず、みんなに相談してみようよ。さ、ついたよ」
そう言って譲られた道の先には直径五メートル程の窪地があり、既に集結していた高橋以下三名の分隊員達が思い思いにくつろいでいだ。
「結構早かったね」
「ええ、思ったよりも歩き易い経路でしたので」
「それじゃこれ。ちょうどいいのがあったから、着替えると良い」
簡単な挨拶を済ませると、高橋は宮田の方へ向き直り、持っていた長靴と戦闘服を差し出す。
「いいんですか?こんな物頂いちゃって」
使い古しではあるものの、どちらも自分が身に着けている物よりか遥かに状態は良い。
「いいから、いいから。この辺りじゃ珍しく綺麗な仏さんだったから、きっと頭でも打つかして死んじゃったのだろう。服はその仏さんからで、靴の方はその近くで足だけ残しておっ死んでた誰かさんのだ。だからまあ遠慮なく使って。おお、ピッタリじゃない。良かった、良かった」
死んだ仲間の衣服を剥ぎ取るなんて、畜生にも劣る行いだ。しかし既に袖を通し、この着心地の良さを味わった後では背徳感なんか微塵もない。むしろ今まで、何故そうせずにいたのかと後悔する。
「もしかして、皆さんの着ている服もこうやって手に入れたものですか?」
「勿論。だからこんな物、もう気にしないで気楽にやろうよ」
そう言って及川は、襟に縫い付けてある自らの階級章を指でピンと弾く。
「いや、でもそう言うわけにはいかないですよ。だったら、皆さんの事はなんとお呼びすればいいのです?」
「そんなの適当でいいよ。高橋でも高橋さんでも。なんでも呼びやすいよう、好きに呼んでちょうだい。他の奴らもそんな感じでよろしく。よし、それじゃあ飯にしようか」
「ちょっ、ちょっと待ってください!まさかこんな所で火を起こすんですか?」
「まさかもなにも、焚き火ぐらいするでしょうよ。これから飯にするんだから」
宮田の静止など意に介さず、高橋達は黙々と焚き火の準備を進める。なんて人達だ。そろそろ日も暮れようというのに火など焚いては、敵に「見つけてくれ」と言っているようなものだ。ほんの数時間前には敵の襲撃だってあったばかりなのに。
「あの、たぶん敵に見つかるのを心配しているのでしょうけれど、気にしなくて大丈夫ですよ」
唖然として立ち尽くす宮田に小林が応える。
「敵の目的は僕達の攪乱で、それほど本気に戦っているわけじゃあない。だったら、なにも暗くて危ない夜間に行動する道理なんて無いでしょう。好き好んで夜間に攻撃を仕掛けるのは、世界広しと言えど、我々日本人くらいのものでしょう」
「そうよ、そうよ。最初は俺も心配だったけど、でも本当に大丈夫だから」
及川が賛同の言葉を被せると、不承不承、宮田もその場に腰を下ろす。
しばらくすると、ゆらゆら揺れる炎が車座に座る男たちの顔を赤く照らし、くすんだ煙が夜空の奥へ吸い込まれだした。舞い上がる火の粉は幻想的で、幾分か気を紛らわせる。
「では、宮田君の歓迎会もかねて、一丁やりますか!」
「やりますか!」
高橋の号令で、分隊員達がそれぞれの背嚢から何やら次々に取り出す。缶詰、乾パン、それから、銀紙に包まれていて中身は見えないが、佇まいと漏れ出る匂いから察するにチョコレート。煙草を巻く高橋の隣では、小さな袋に包まれた何かを、及川が飯盒で沸かした湯で煮だしている。垂涎ものの品の数々に目が眩む。
「ほら。そしたらこれは、宮田君の分」
「ありがとうございます!」
最後に口にしたまともな飯は、こっそり集めたデンデン虫で作ったお握りで、それももう一週間以上前の話だ。まさかそんな物と比べ物にならない上等な食糧が、自分のような一兵卒にも分け隔てなく分配されるなんて。感激のあまり遠慮を忘れ、感謝に目が綻ぶ。
「いただきます!」
合掌し、手始めに覗き込んだ飯盒の中には、赤色の汁物が入っていた。
「少しばかり水で嵩増ししているけど、それは鶏肉のトマト煮込みです。クラッカーをつけて食べるといいですよ」
「クラッカー?」
「そう、それ。その薄手の乾パンみたいなものがクラッカーです」
聞きなれない言葉に鸚鵡返しすると、小林が丁寧に教えてくれる。そんな洒落た言い回しをせずとも、乾パンであるのに変わりはないだろうに。それに腹に納めれば結局は同じだ。しかし物は試しと言われた通りやってみる。煮込みに浸したクラッカーは、忽ち汁気を吸い込みグニャグニャになった部分と、元のパサパサに乾燥した部分とに別れた。それはこれまで経験した覚えのない彩りで、未知への期待を胸に口中へ放り込む。
「あちちち・・・!」
熱さで少し口の中が爛れたけれども、それにもまして美味い。ああ、生きていて本当に良かった。感嘆と共に湧き上がるのは根源的な喜びで、感想などといった小賢しい言葉の溢れ出る余地なんてない。飢えた腹に詰め込まれる贅沢な夕餉を、全身に味覚が備わったかのようにしてひたすら味わう。
「そら、これも飲んでみろ」
高橋から手渡された水筒の蓋には、淡く色づく不思議な液体が注がれていた。仄かに漂う甘い匂いに誘われ口にすると、透明感のあるふくよかな香りが一気に口内へ広がった。
「美味い・・・」
「紅茶は初めてかい?」
「コウ茶?」
「紅いお茶と書いて紅茶だよ」
空中に指で字を書いた高橋が、無言のままお代わりを注ぐ。そして「これと一緒にやるともっと良いから」そう言ってチョコレートの欠片を幾つか宮田の手のひらに乗せる。一つ頬張っただけで、カカオの刺激と糖分が得も言えぬ快感を伴い背筋を貫く。満腹になるには程遠い分量だけれど、満足感から脱力して首を傾げる。
「こんな食い物がウチにもまだあったんですね」
感心して一言漏らすと、一同がきょとんとした顔で宮田を見つめる。
「何を言っているんだい。こんな物がウチにあるわけないでしょうが。全部チャーチルからの贈り物だよ」
「チャーチルって、あの英国の首相ですか?」
「そう。これは全部、この辺りに展開する自国の空挺部隊に向けて、英軍が投下した補給物資だよ。その中でも何らかの事情で降下地点を誤った物、もしくは英兵が「要らない」と言って破棄した物を有難く頂戴してきたんだよ」
高橋の言葉を継いで及川が補足する。そう言われれば、缶詰めに印字してあるのは全て英字だ。だが、「要らない」とはどういう了見だ。敵も我々同様、ないしそれ以上に追い込まれていると聞かされていたのに、これではまるで・・・。
「乞食だよ」
ハヤトが吐き捨てるように宮田の思いを代弁すると、高橋はゴロンと寝そべって煙草に火をつけ、うんざりした口調でそれに応える。
「またその話かよ。いいじゃんか別に、腹も少しは膨れたんだし、そうカッカするなよ」
「だってそうじゃないですか。我々がこんな惨めな目に遭うのは、上の連中が何も考えておらんからでしょう。二言目には「大和魂」を持ち出して無理難題を押し付けて、手柄は全部自分の物、失敗は全て部下のせい。七師団の須見中佐なんかがいい例だ」
須見中佐とは、開戦前に勃発したノモンハン事件において、戦車によって機械化された露軍相手に寡兵を率いて善戦した歴戦の兵だ。しかし戦果をあげたにもかかわらず、その一件で行った作戦拒否などをきっかけに予備役へと編入されてしまった。
「優秀な人間を追い出して、下らん根回しの得意な連中ばっかりが残って。そんなので戦争に勝てるわけがない。・・・それにしても、やっぱりあれですね。分隊長の言った通りでした。そんな連中に限ってなかなか殺せんもんですな。今日のだって、ありゃ絶対に当たっていたはずなのに。どういうわけで飛んでくる弾を避けられるんだか」
「ハヤトさん、その話はちょっと・・・」
それまで静かに耳を傾けていた小林が、ハヤトの口元に手をやって何事かを諫める。要領を得ずただぼうっと様子を見守っていると、同じような顔をしたハヤトと目があう。するとハヤトは、「あ・・・」と発したきり押し黙った。どういうわけだか狼狽していたはずだけれど、「明日も早いからもう寝るぞ」と高橋が言って火を消すと、全ては夜の闇に消えた。
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