宮田上等兵 4
「お国のためにしっかり頑張ってこなんばい!」
郷里のある筑豊の町を出立する際、母が自分にかけた言葉は通り一辺倒のありきたりなものだった。
女手一つで息子を育て上げた宮田の母は、明治生まれの無教養な女で、ありつける仕事の種類はどれも限られていた。どんな仕事であろうと「一生懸命働かないかんばい」と、信仰にも似た口癖をお題目のように唱え働くその姿に女らしさと言うものは皆無で、嘲りを受けることもしばしばだった。だが、幾ら泥に塗れたとて母性の放つ輝きが翳るものではない。背中しか見せられなかった母とこうして面と向かって対話するというのは、つまり宮田に出来うる最大限の親孝行でもあった。
久留米にある駐屯地での初年兵訓練を終えると、戦争はすぐに始まった。
戦地へ征くのに乗せられた輸送船は、むかし庄屋の息子に頼んで一度だけ読ませてもらった軍記物に出てくる戦艦のようで胸が躍った。ただし上官の中には内心、海軍に対抗意識を燃やしている者もいたので、おいそれとは悟られぬよう注意せねばならなかったが。
「いいか貴様ら!焼くな、犯すな、奪うな!いいな!違反者がいた場合は誰だろうと構わん。即刻俺に報告しろ。序列階級関係無くだ。以上!」
初陣となるフィリピン島上陸直前、間借りしている船の甲板上にて訓示を受ける。質実剛健を旨とする連隊長が口にしたのは、司令官より直に賜ったとされる厳命だ。しかしそれは軍人以前に人として当然忌避すべき行いであり、取り立てて言われるまでもない内容に少し拍子抜けする。何とはなしに空を見やると、洋上に吹く柔らかな風に煽られ、錦の御旗が静かにはためいていた。
船が湾内へ侵入すると、「いよいよ戦火を交えるのだ」と誰もが意気込み色めき立つ。けれども、いざ上陸してみれば先発する第一陣の手によって敵は既に撤退しており、それに伴い戦線も後退していた。自分の属する後発組が任ぜられたのは陥落させたマニラでの拠点づくりで、主に請け負ったのは戦闘被害を受けた原住民の住居の補修と野良仕事だ。およそ軍人の誉れとは縁遠い仕事に辟易する者も多い中、懸命に汗を流す。
上陸から一か月も過ぎた頃、当番兵に欠員が出たというので歩哨に就く事になった。
もう正月だというのに南国の空気は変わらず陽気で、勝ち戦の浮かれ気分を余計に助長させる。勿論それは宮田とて例外なく、「敵なんかいやしない」根拠の無い楽観的な考えに慢心し鼻歌まじりで巡察していると、しかしふいの物音に足を止める。音の出所は歩哨路より少し逸れた草むらからで、目を遣ると月明かりに揺れる人影があった。
「誰か!」
歩哨とは本来、二名一組で行うのが原則だ。彼我不明の者に遭遇せし場合、及び不測の事態に際しては一名が監視を続行、残る一名が部隊へ報告に走る。だが、同行していなければならないはずの先任者は、「二名もの人員を割く必要なし」と断じ哨所近傍の路地にて煙草を吸っている。そこに潜んでいる者が敵であった場合、更にそれが複数名であったならば実戦経験のない自分には荷が重い。無責任な提言をする先任者を恨めしく思うが、「次の巡察ではちゃんとお前にも休憩を取らせるから」と言われて賛同した手前、自分にも非はある。
「誰か!」
怯む気持ちを押し込めるため、肚の底から声を出す。だから聞こえていないわけはないのだが、依然として相手からの応答はない。「獣であれば良いのに」と切に願うが、ガサゴソする衣擦れの音がそれを否定する。
「誰か!」
ついに三度目の誰何だ。これで正体を現さなければ、次は捕らえるか殺すかしなければならない。出来るならそのどちらもせず穏便に済ませたいが。震える銃口の先を見つめながら考えあぐねていると、ようやく返事があってホッと息をつく。
「待て、待て、待て、待て!味方だ、味方!」
見知らぬ顔だが、大仰に手を振りつつ出てきた人物が中佐であるのに気づくと、慌てて銃を下ろして敬礼する。
「お疲れ様です!」
こんな時間にこんな所で、一体何をしていたのか。答礼もしないで中佐は、服装の乱れを整えるのに専念している。仮設とはいえ、宿舎にだって便所は備わっているのだから、用便を足しに来たわけでもないようだが。好奇心から、つい中佐のいた付近を覗き込んだ宮田は、そこにあったものを目にして困惑する。
「あのう」
「ん、なんだ」
「一つお尋ねしたいのですが、あれは・・・」
顔を背けた宮田の指さす先には、あられもない姿をした少女が一人横たわっていた。
「なんだ。お前、童貞か?」
下卑た笑みを湛えた中佐が、答えに代えて宮田をからかう。すると空にかかっていた雲が晴れ、月明かりがそっと少女の体に手を伸ばす。度重なる殴打によって腫れた顔は原形を留めておらず、涙と鼻血とでグシャグシャに濡れていた。体には複数の擦過傷があり、そして陰部には出血と、女性からは分泌しえない体液の付着も確認できた。問いただすまでもなく、中佐が少女を犯したのは明らかだった。
「じゃあ折角だ。お前も筆おろししてもらえ」
「いえ、自分はあの・・・」
「なんだよ。遠慮するなって」
「いや、本当に・・・」
「あ?なんだコラ。テメー、一兵卒の分際で俺にたてつく気か」
返答に困りまごついていると、今にも殴り掛からんばかりの勢いで中佐がまくしたてる。しかし、だからと言って従うわけにはいかない。先の訓示にもあったように、女を犯すことは固く禁じられている。敢えてそれを強要しようというのが口封じのためであるのは明白で、それに何より、暴力を用いてまで満たさなくてはならない欲情など、男として認められない。
「オラ。四の五のやってねえで、さっさと犯れよ。穴ぼこに棒っきれ突っ込むだけだろうが」
兵の模範たるべき士官の言動ではなかったが、上官相手にそれを指摘できるほど生半可な教育も受けていない。参った。いったいどうすればいいんだ。だが、たじろいだ宮田が後ずさりすると「パンッ」と乾いた音が一つ鳴り、中佐はその場に頽れ動かなくなった。
咄嗟の事だった。最中に抜け落ちでもしていたのか、哀れな少女の手には将校用のピストルが握られており、立ち上る硝煙の臭いが鼻につく。やがて震える銃口がこちらへ向けられると、肩に掛けていた小銃を下ろして構え、照準を合わせる。躊躇いはなかった。引き金を弾くと少女の体は少し跳ね、夜目にも鮮やかな鮮血を飛散させる。全てが機械的な所作のあと、ただ宮田だけが寂寞とした情景に取り残された。
「わざわざ死人に鞭打つ必要もあるまい。それにこんな時期だ。将校の不始末は士気に障る」
事の顛末を連隊長に報告した結果、事実には部隊にとって都合のいい修正が加えられた。
哀れな少女は敵ゲリラ兵に。中佐の死は、そのゲリラ兵との交戦による名誉の戦死に。そして哀れな少女の命を無惨にも奪った卑怯者については、「歩哨勤務態度良好につき、上等兵に任ず」との沙汰が下された。公明正大な処置を求めた宮田は、不名誉な昇級と引き換えに拠り所とすべき大義を失った。
どれくらいの間そうしていたのか、傾いた陽射しに瞼をこじ開けられると、洞内は光で満たされていた。頭はまだ微睡の中だったが、ゆうに一時間は経過している。慌てて身支度を済ませ、急いで外に出る。
勧められたとは言え、さすがに長風呂が過ぎて怒られるかと心配したが、見張りをしているはずの及川は枝ぶりのいい木のたもとで長座になり、気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「おお、ゆっくりできたかい?」
「ええ、お陰様で」
「じゃあ行こうか」
そう言って再び歩き始める。
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