宮田上等兵
あの世なんて所は、ありはしない。天国も地獄も、あるとすればきっとこの世のどこかだ。
「実家ではミソッカスの三男坊でも、軍隊に入れば関係ない!たとえ一兵卒だろうと己の腕次第でどこまでも出世できるし、なにより衣食住には困らない!」
帝国陸軍上等兵、宮田博文が軍への入隊を決めたのは在郷軍人会の老人達が語る、そんな甘言にかどわかされてだった。
たしかに軍隊に入れば身分も学歴も関係ない。重要なのはメンコの数(軍歴)だけで、自分のように学もコネもない人間にとっては至極魅力的な環境だ。訓練も、上官からのシゴキも辛くはあったけれど、田舎での暮らしに比べればなんて事はない。しかし残念ながら、最も肝心な「衣食住には困らない!」についてはまるっきり大ウソだった。
内地にいる間と、開戦後しばらくはその通りだった。けれども、いざ戦場に出てみれば食べるものはロクになく、名も知らぬ広葉樹の下で飢えた腹を抱え雨露をしのいでいる。身に纏うのは服と呼ぶにはあまりにもボロボロな軍服の切れ端で、これで衣食住に困っていないと言えるのであれば、世の中には戦争をしなければならない程の貧困などはよっぽど存在しない。
誰も彼もがそんな有様の中、現地視察に訪れた高級参謀はなんとか集結することの出来た部隊の一部を前に大いに憤慨していた。
「なんと言う体たらくだ、貴様ら!」
吐き捨てるようにそう言うと、参謀は石で作らせた即席の壇上からピョンと飛び降りる。
「なんだ、このサーベルは!なんだ、この銃は!」
手近にいた若手将校から参謀が抜き取ったサーベルは錆びだらけで、同じように、肩にかけた小銃も錆が鉄を食い始めている。かたや参謀はと言えば、軍靴こそ泥に塗れてはいたものの、軍服にはまだうっすらと折り目すら残っており、そう指摘するに足る立派な装いをしていた。だがここは、千古不易のジャングル。内地の教育隊などではない。武器手入れの道具なんてとうの昔にチンドウィン河の底に沈んでいたし、第一、見た目なんて物が意味を成すほど人に寄り添ってくれる世界でもない。
「申し訳ありません、ですが・・・」
「言い訳はもう沢山だ!」
若手将校も何か言い返そうとはしたものの、無下に断じられると気圧されて押し黙る。
「いいか?食う物が無いからと言って、弾が無いからと言って、それがなんだ!弾がなければ銃剣があるだろう。銃剣がなければ腕で行け!腕もなくなったら足で蹴れ、口で噛みつけ!目で殺せ!それが大和魂だろうが!」
言葉の持つ力とは深大だ。それが根拠のない無責任な激励だとしても、沁みついた観念に呼応するものであれば無尽蔵に人を突き動かす。
「参謀殿の言う通りだ・・・!いま一度奮起し、勝利への歩みを進めようではないか・・・」
今にも消え入りそうなか細い声だったが、それは狂気を伴う獣の咆哮だった。幽鬼の如く生気を失っていた兵士たちの眼に、暗く、ギラついた光が宿る。
「左様、敵は銃声の二、三発聞かせれば逃げ出すような臆病者共。それにいざとなれば神州日本には神風が・・・」
漫然と訓示を続ける参謀が胸を張って大きくふんぞり返ると、突如として「ターン!」と小気味よく乾いた音が響き、その背後に土煙が舞う。それは敵が使用する小銃の発砲音で、誰からとなく上がった「敵襲!」の声に部隊は臨戦態勢へと移行し、続けざまに怒号が飛び交う。
「参謀殿、どうぞこちらへ」
間一髪、銃撃を免れた参謀は暫く放心状態で自身を襲った弾の痕を見つめていたが、護衛の兵の呼びかけで我に返るとそそくさと逃げかえって行く。だが、妙な攻撃だ。
幾ら前線が近いにしてもここは参謀が視察に来られるくらいの場所で、敵にしたって先行する別動隊の目をかいくぐってまでわざわざ攻め入る価値はない。つまり安全圏はずだ。以前より散開する敵空挺旅団の可能性も考えられるが、それにしては弾のバラまき方が随分控えめだ。まさか我々同様、残弾に余裕がないわけでもあるまいし。分隊毎の定位置につきつつもそんな疑問が頭をよぎる。しかし戦況について考察するのは士官の仕事で、自分の如き一兵卒がやるべきはただそれに従うのみだ。
「分隊は前方、藪の位置にまで前進する!」
分隊長が手信号で示したのは十メートル程離れた地点にある茂みだったが、今の自分たちの足ではどれだけ精一杯走ってもいい的にしかならない。しかしどれだけ無謀だとしても、「前へ!」の号令がかかれば体は勝手に走りだす。きっと何名かは負傷するだろうし、悪ければ全滅すらありうる。ところがそうはならなかった。分隊が駆けだすと同時に敵からの射撃は一旦途絶え、その間隙を縫い、全員無事に前進目標へと到達することが出来た。
「ふん、間抜けな連中だ。恐らくは弾倉交換にでも手間取っておったのだろう。残弾すら把握できておらんとは、大した敵ではない」
茂みの中に身を隠した分隊長がそう言って三八式歩兵銃の槓桿を引き絞る。だが、分隊長は知っているのだろうか。こちらの残弾が分隊で併せて二十発も無いというのは。姿の見えぬ眼前の敵をねめつけ、必殺の機会を窺う。すると突如、むんずと首根を掴まれた。
「班長!左前方百の位置にて負傷者一、こちらの衛生兵殿をお借りしてもよろしいか!」
聞き覚えの無い野太い声が耳元で上がり、びくりと身をすくめて振り返ると、そこには見知らぬ顔の軍曹が一人佇んでいた。一体その図体で、どうやって気配をたてずここまで近づいたのか。筋骨隆々且つ気勢の充実したその風貌は、正に帝国軍人かくあるべきとした理想像であり、この地からは消えて幾久しいものだった。
「構わん!ヨーチンなんか早く連れていけ!」
一瞥すらせず返答した分隊長が、舌打ちをして鬱陶しそうに手を振るう。
「かたじけない!では衛生兵殿、どうぞこちらへ」
許可を得てニンマリと微笑むと、軍曹は宮田を森の奥へと静かに誘う。
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