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永井 5

「こん腐れ外道が、人がやさしゅうしてやれば調子にのっちからに!」


 憤怒に彩られた男の顔が左右に揺れ、次いで左頬に衝撃が走る。


 痛みとは別に、骨の叩かれる音が頭蓋で反響したのにも怖気を抱くが、間髪入れず殴り続けられたせいで一瞬、宙を舞うような心地よさに我を失う。あの後、軍神の家にて見咎められた永井の身柄は、丹田一家に引き渡され、今は彼らが所有する廃寺にあった。


「すんませんでした・・・」


 ここへ連れられてから、もうどのくらい経つのか。中結いから先を解いた竹刀で何度も叩かれ、背中の皮は裂けて血が滴り、縛り付けられて正座したままの下半身には感覚がない。


 大事な商品でもあるはずの自分に、傷がつくのも構わず、こうも遠慮なく暴力が振るわれるのは、行きつく先に死が待ち構えているからだ。謝罪の言葉が意味をなさないのは当に理解しているはずなのに、それでも一縷の望みを込めてそう発せずにはいられなかった。


「何を偉そうに人語を介しとるんじゃ、こんド畜生が!まだまだこの程度じゃ済ませねえからな。おい、今夜もまた続きやるから、それまでにしっかり手当しとけ」


 やっと夜が明けてくれたようだ。見張り役にそう言いつけると、丹田の親分は取り巻き連中と一緒に、朝もやの中へ消えていく。


 痛めつけられ、嬲られ、蹂躙され、傷が癒えたらまたそれを繰り返し、一体いつまで続くのか。いっそ殺してくれればいいのに。


 叶うべくもない願いに逡巡する永井だったが、見張り役の様子がいつもと違うのに気付き顔をあげる。


 瞼が酷く腫れているせいでよく見えないが、隙間から覗けた男の目には、みすぼらしい姿になった自分が映っていた。


 上背はあるが、痩せぎすでひょろ長い、着流し姿のその男は、ちょうど自分がえのは屋に身を沈めるのと同じ時期に一家に加わり、今は舎弟頭を務めている。


 もしかすると、人目が無くなったのを見計らって、一発ヌいておこうって魂胆なのかもしれない。男が屈んで身を寄せてきたので、「ひっ・・・」と情けない悲鳴を上げて体を硬直させるが、男は「騒ぐんじゃねえ」と呟き、永井を拘束していた縄を解く。


「何してる。ほら、逃げろよ」


 鼓膜が破れているせいで聞き取りづらかったが、たしかにそう聞こえた。


 しかしどういうわけだろう、あまりにも唐突過ぎて呆然とする永井に、男は面倒くさそうに続ける。


「ウチはもう駄目だ。オヤジはあんな調子だし、一家にしても、もう腐りきっていて立ち直せる余地もない。どんなつもりだったか知れないが、お嬢の股のユルさは、なにもお前に対してだけじゃねえ。町中の誰とでも、それこそ犬とだってやってるのを見かけた奴がいるってくらいで、ありゃ完全な色キチガイだ。ヤクザの娘がそうなるってのも、因果って奴なのかね」


 男は一息つき、傍らにただ佇むだけの、朽ちたご本尊を見上げる。


「もちろんオヤジとだってやってるぜ。オヤジもオヤジで、適当な奴に因縁をつけて嬲れるのが楽しみらしく、この後も、別で囲ってるお前みたいな野郎の所へ行って、同じようなことやるんだとよ。付き合い切れねえや。お前はいいきっかけなんだよ」


 どこまでが真実かは計りしれないが、男の言葉に嘘は無いようで、「それからこれもだ」と言い、茶封筒を投げてよこす。


「三百円ある。本来の取り分には及ばないだろうが、それでもそんだけあれば逃げるのだって、人生をやり直すのだって、自分の腕次第で何とでもなるだろう」


「でも、どうして」


「あん、何がだよ」


「どうして僕を逃がしてくれるんですか?」


 永井からすれば願ってもない話だが、ただ組を抜けるだけならば、わざわざこんなことをせずともよいはずだ。むしろ遺恨が残るだけで、良いことなんか一つも無いように思う。


「そりゃお前、逃げる時は二手に分かれた方が良いに決まっているからだろうが。とっ捕まるようなヘマをするつもりはないが、追手は分散させるにこしたことはない。まあそういうわけだから、せいぜい上手くやりな。俺はそろそろ行くぜ」


 そう言い残して男は去り、永井は自由を手にした。それから先はあっという間だ。


 おりしもの昭和恐慌から国内の開戦意識は高まっており、中国でドンパチが始まると、軍隊へはいとも容易く入れた。


 思っていた通り、軍隊とは実に素晴らしいところで、衣食住の面倒は見てくれるし、おまけに色々と学ばせてもくれる。例えば字の書き方、算数、飯の炊き方に礼儀作法、そして何より、生きがいをも与えてくれた。


「遂げよ聖戦、興せよ東亜」


 難しい言葉の意味はいまいちわからなかったが、部隊長曰く、「世の中には「白人」と呼ばれる悪い連中がいて、そいつらは自分達以外の人間を「有色人種」と呼んで蔑み、支配している。


 その悪しき不平等を打ち砕くためにこそ、我々は戦うのだ」そうだ。そんな我らが赴いたのは、戦地よりも、「楽園」の二文字が似合うような場所だった。


 目の覚める青い空、白い雲。見慣れない木々が海風にそよぎ、右へ、左へユサユサ揺れる様は、なぜだか頭を惚けさせるが、敵が根拠地として使用しているのは、海岸線にほど近い小さな村落で、長閑な風景の中、忽然と現れる武装集団にハッとする。


「なに、間合いを詰めて叩けば楽勝よ」


 古参兵の言うように、味方からの援護射撃を受けながら接近すると、敵陣は蜂の巣をつついたような騒ぎを起こし、攪乱して逃げ惑う敵を討つのは本当に簡単だった。


 飛び散る脳漿、血を吸って赤くなった地面。生き延びようとする者同士の命の奪い合いなのだから、それこそ正に必死のはずなのに、だがどういうわけだろうか、この手応えの無さは。


「そりゃお前、相手がこれじゃあね。弱すぎるんだもの。誰だってそう思うさ」


 そんな風に感じるのは自分だけかと思い、仲間にも尋ねてみるが、誰からも満足の行く回答は得られない。


 違うのだ。強いとか弱いとか、そういった話ではない。しかしその感覚の正体は、時を経ずして理解に至った。


 撤退する部隊からはぐれた、間抜けな敵兵がいるというので索敵していると、ちょうどそいつとかち合い、出会いがしらの銃撃戦にもつれ込む。


 わざわざ呼びに行かずとも、時期に応援は駆けつけるはずなので、敵の動向を窺いつつ、機を見て牽制射撃を行う。だが、しばらく応戦した後、急に静かになったので立木の陰からこっそり覗くと、敵は思わぬ動きを見せた。


 抵抗されたら受けて立ち、背を見せて逃げ出せば、追撃して仕留める。


 自分に課せられた任務はその二つのはずなのだが、何を思ったか敵さん、武器を捨て、何の気なしにブラブラ、散歩でもするように歩み寄ってくる。降参して捕虜になるつもりだったら、もっとわかりやすく手を挙げているはずだし、かと言って、戦う意思は全く感じない。


 いったい、どういうつもりだ。相手の意図を測りかね、互いの顔を認識できる距離まで接近を許してしまう。そしてそこまで来て、ようやく全てを理解した。なんてことはない。こいつら皆、俺と同じだ。


 思い返せば、これまで殺してきた連中は、確かに白いのもいたが、どちらかと言えば黒か、自分たちの方にこそ近しい見た目をした奴の方が多かった。


 どいつもこいつも、敵味方含め、ここで向き合っているのは全て自分自身であるという事に、誰も気づいていないのではないだろうか。真に立ち向かうべき相手は、こんな所にはいない。名も知れぬ、忌むべき存在を思う時、永井は人の道を外れる覚悟を決めて引き金を弾いた。


誤字脱字、感想などありますれば、どうぞ遠慮なくお聞かせください。

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