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プロローグ

 ぽつぽつと降りしきる雨がガラス窓を叩き、軽やかな音を奏でている。


 バンコクでの任務を終えた私が参謀としてこのビルマの地を踏んだのは、まだ十月の中ほど頃の事であった。それは比較的過ごしやすい時期とされる乾期の始まりでもあったのだが、やはり熱帯の湿度はとても高く、机仕事をしている際などには腕にべったりと張り付いてくる書類の感触が不快だったのをよく憶えている。


 着任の挨拶を済ませると、早々に兵棋演習へ参加するよう要請された。演習の研究内容は、「ウ号作戦」についてだ。


 当作戦の主目的であるインパールへ攻め入るという案は、ビルマ攻略が予想外に早く終わった段階で思索された二十一号作戦の発案時にはすでに存在していた。だが、日本軍二個師団弱をもってして英軍十個師団を叩こうなどというのは甘い夢物語に過ぎない。もっとも、物事の判断基準が自己の過大評価と敵の過小評価に基づくものであればそれも妥当な勘案と言えるのだが。であるからして、ウ号作戦の保留を余儀なくさせていたのは彼我の兵力差ではなく、もっと別の問題だ。


 敵の拠点があるインパールへたどり着くためには、どうしても山越えをしなくてはならない。険しくそびえ立つアラカン山系の山々は、「そこにある」ただそれだけの純然とした理由で我々の行く手を阻んだ。


 いくら精神論に重きを置く帝国陸軍といえども、三十キロを超す重装備を背負って二百㎞の行軍を踏破し、人口稀薄地帯の山岳部で兵站の確保もなく二千メートル級の登山を行うというのは明らかに無謀であり、ましてその後、戦闘へ突入するなど不可能という見解だった。議題には上るものの何の進展も得られなかったのは、この事実がそれだけ揺るぎない物だったからだ。そして師団長以下、現地部隊からでさえ反対の声をあげられたのもそれが由縁である。そうこうしている間にガダルカナル島をはじめとする各地での戦局悪化に伴い、作戦は一時保留と言う形で立ち消えになったかにみえた。


「アッサムへ進攻する」


 自信たっぷりに司令官がそう嘯くと、場内にどよめきが走る。


 かつて師団長時代、二十一号作戦にすら反対していた司令官の目標が、まさかインパールを超えたその先にあるアッサムを見据えているとは。当初、誰もが冗談だと思った。しかし意見具申を行った者や、反対意見を抱く者が次々と更迭されていく様を見てそれが本気なのだと知ると、司令官を諫める者はすぐにいなくなった。


 このような環境下で行われる兵棋演習とはまるで子供の「ごっこ遊び」で、演習員も、客観的な立場にいなければならない統裁官も、実質、全て司令官が兼務している有様だった。


 例えば統裁官が「我が方の損耗率四割」などと言おうものなら激が飛び、「敵はそんなに強くはないし、我が方もそんなに弱くはない!」と言う理由で修正が入り、我が軍はどれだけ疲弊して敵の猛攻にあおうとも、多くとも一割の損失も出さない無敵の軍隊だった。


「物資の移動には牛馬を用い、これを糧食にも充てる!」


 兵站の確保と言う重要課題に対し示した解決策も極めてお粗末で現実味が無く、しまいには、「敵に出会ったら銃口を空に向けて三発撃て。それで敵は投降してくる。そういう約束になっとるのだ」など、正気を疑わせる発言も散見された。しかしそれでも、発動までには至るまいと思われたこの作戦は実行に移された。では、その要因が司令官一人にあるのかと言えば、決してそうではない。


 追い込まれた戦局、好戦的でなくては積極性を認めない気風、それら二つが相俟っての自己保身は誰にでもあったし、裁決を下せる立場の人間ですらそれは同じだった。つまり国民も国家も、結局は従属してそれを後押ししたのだ。無論、私も含めて。


 この情緒的な行動様式こそが日本らしさであり、いわばこの作戦は日本国の全てを体現していると言っても過言ではない。しかしてその責を受けるのが末端であるのだけは、唯一どこの国も変わりはない。


「参謀!参謀!参謀はどこだ!」


 ドタドタと下品な足音が近づいてくると、耳障りな声の主がノックも無しに勢いよく部屋のドアを開ける。


「いかがなされましたか、閣下」


「おお、ここにおったか参謀!」


 頻発させる人事異動によって司令官は個人をよく把握していない。だから一部の親しい者を除き、人を呼びつける際には名前でなく役職、または階級で呼ぶのが常だ。幕僚とて例外なく。


「どうもこうもないわい!せっかくワシが苦心して綿密な作戦を立てたのに、誰も彼もが反抗的で不真面目で、任務を全うしようとせんのだ!ああ、ワシはいったいどうすればええんじゃ。頭が痛いわい」


 司令官が自分のもとを訪れて愚痴をこぼすのは、今日だけでこれで三度目だ。愚痴の内容は芳しくない作戦の進行状況についてだったが、どれも事前の検討段階で予想されえた経過だ。むしろ順当とも言える。これが現場のせいだと考えている人間は、果たして司令官以外に何人いるのだろうか?


「それは誠に、遺憾共しがたいお話ですね」


「なんじゃい、その言いぶりは。まるで他人事みたいに。いいのう、貴様は。ワシも参謀のように気楽に考えられたらいいのだが。陛下よりお預かりした赤子が厳しい戦場の中で散っていくのを思うと、断腸の思いだ。いっそ本当に腹でも切ってしまいたいわい」


 そこまで言うと司令官は、物憂げな表情でチラリとこちらを覗き見る。


 あの、群青色に湧く空の下の、いったいどこに戦場があるというのだろう。あそこにはただ地獄が広がっているだけだ。


「閣下。幕僚としての立場上、自決したいとおっしゃれば私はお止めしなければなりません。ですが本心からおっしゃられているのであれば、それは是非にとお勧めいたします」


 死んで詫びになる程度なら、罪も罰もたかが知れている。一度しまったピストルを引き出しから取り出すと、司令官に手渡し部屋をあとにする。無能と言う名の害悪をまき散らす司令官は、しかし一人取り残されてもただ悄然しているだけだった。


感想、誤字脱字など、思うところあれば遠慮なく教えて下さい。何卒。

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