前編
リリア・ベスカトーレ。彼女は超一流の狙撃手として名を馳せていた。
過去に請け負った暗殺依頼は数知れず、そして失敗の経歴は存在しない。
彼女に任せれば全てが上手くいく。そう誰もが信じて依頼を渡す。
一部の層では彼女を神格化しているような集団もある。けれど変わらず、彼女は殺しを全うするのみだった。
彼女の使うスナイパーライフルである《Mortal-13》は彼女の為だけに創られた、世界に一つしかない一点物。照準器は付いておらず、完全にリリアの目視によってのみ目標を捉える仕様になっている。
けれど、百発百中。僅か何mmという小さな鉄塊によって葬られた命は、もはやその死体のみで山を作れるかという程だった。
そして今日も彼女は任務を果たす。
ヒュン、と小さな風切り音と共に放たれる必滅の一矢。それは見事暗殺対象たる悪徳の限りを尽くしていた国の重鎮の殺害に成功した。
「任務、完了」
『こちらでも死体を確認した。間近で見ているが、呼吸をしている気配はない』
「……そうか」
リリアは仲間からの通信を受け、程なくして帰投した。
小さい頃から父によって銃の特訓を受けてきたリリアは、その才能を買われて《マキシマス》という暗殺組織に加盟した。
そこではリリアは神童として扱われ、僅か十五歳の時点では既にトップレベルに上り詰めていた。
当然、リリアのような小娘の昇進をよく思わない者もいる。けれどリリアを持ち上げる者の方が多いものだから、表立って批判することはできない。せいぜいが陰湿な、けれども大事にならない嫌がらせをする程度のもの。それこそリリアにとってはどうでもいいことだった。
稼いだ金の半額は貧乏な実家に仕送りしている。知らない人間を殺すのみで家族を養えるのなら、リリアからすれば安いものだった。
リリアは両親から愛されていた。だからこそ、親孝行をしたいと思っているのだ。
組織に引き取られてからも定期的に会わせてもらっている。その際はいつも心配と激励の言葉をかけられ、リリアも励まされているのだった。
そんな抹殺者が如き苛烈さのリリアにも、平穏な日常というものがある。
彼女の小さい頃からの親友であるエリナ。彼女はリリアの家業は知らないものの、休みの日にはいつもリリアと遊んでいた。
今日もそう。青みがかった銀髪を後ろで纏めるリリアと、黒い髪を上品に伸ばしたお嬢様たるエリナは平和そうにショッピングをしている。
「リリ!この服なんてどうかな?」
「似合うと思うよ、エリナ」
「何言ってるのよ!これを着るのはリリに決まってるでしょう!」
「い、いや、わたしは──」
エリナは穏やかだが、少々押しの強い少女である。その勢いにはさしものリリアも負けているのであった。
しかしリリアは十年来の親友との一時の休みが楽しいのだ。この時、この一瞬だけは普通の女の子でいられる……そう思っていた。
「鏡を見て!すごく似合ってるわ!」
「うぅ……エリナ……」
花の刺繍が少し入った白色のワンピース。動きやすい服ばかり来ているリリアからすれば、こういった"カワイイ系"の服は新鮮だ。そして同時に気恥しさもある。
「わたしがこんなのを着ても……」
「わたしはいいと思うよ。リリもたまにはカワイイ服を着ないとね!さあ、どんどん試着していくわ!」
「え?そ、そんなに──」
その後もリリアの着せ替えタイムはしばらく続いた。
結局一着、可愛らしいワンピースを買うことになってしまったリリアとエリナはファストフードで昼食を摂り、後にアクション映画を見た。
「凄かったね!特にあのスナイパーの人なんて、あんなに遠くから当てられるなんて!」
「う、うん。そうだね……」
リリアとしては複雑な気分になる。休みだというのに、結局仕事のことを思い出してしまっている。映画はフィクションだとしても、やっていることは実質リリアも同じなのだ。偽物でも思い出すものは思い出す。
「どうしたの?気分でも悪い?」
屈んで下からリリアを見上げるエリナは心配そうだ。顔色が悪くなっている親友を気にかけているのだろう。
「いや、なんでもない。それより暗くなってきたし、今日はもう帰ろう」
「そういえばそうだね。リリとお出かけすると時間があっという間に過ぎていっちゃうなー」
リリアはエリナと共に電車に乗り、数十分後に到着した駅から歩くこと数分、巨大な門の構える屋敷へと辿り着いた。
「今日はありがとう!いつも送って貰っちゃってるけど……」
「いいの。わたしが送りたくて送ってるから」
「そう?それならいいんだけど……」
エリナは大手企業社長の令嬢であり、その家はかなり裕福である。貧乏なリリアとエリナが親友たり得ているのも、一重にエリナの性格のお陰だろう。
高貴な存在であってもそういったことは一切鼻にかけず、格下たるリリアに対しても親しく、それも表裏なく接している。そういうところが好感を持たせるのだ。
「それじゃあまた今度!」
「うん。じゃあね」
重厚な門をくぐり、エリナは屋敷の方へと消えていく。名残惜しげに見送った後、リリアもはや組織の本部へと足を向けた。
§
それから数日、リリアは司令官に呼び出されていた。新たな暗殺任務があるのだろう。
ミーティングルームへ向かい、司令官の前に立つ。
「おはようございます。また任務でしょうか」
「おはよう。そうそう、任務だよ」
リリアの前に立つ男、背広姿のどこか胡散臭さの漂う男だ。けれどただならぬオーラを醸し出しており、油断してかかると何をされるか分からない恐ろしさを秘めている。
「オリジン社という会社があるんだけど、そこの社長が問題塗れみたいでね。横領やら暴力やら、結構行き過ぎているらしいんだ」
「オリジン社……」
それはよく聞いたことのある単語だった。何しろリリアの親友の父の会社なのだから。
あの優しげなエリナの父がそういったことをしているとは夢にも思えないが、人間とはそういうものだろう。むしろ裏と表がない方が珍しいのだ。
「そこで依頼が来た。オリジン社の社長オリバーと、その娘であるエリナを殺せというものだ」
──嘘だ。
リリアは自身の動悸がとんでもなく速くなっているのを感じ取った。
親友を殺さなければいけない。そしてもちろん、逆らえば自分と家族、そしてエリナの命もないだろう。
「司令官。社長オリバーを殺すのは分かりますが、なぜ娘まで……」
「ああ、依頼主はオリバーの妻でね。家族との関係を断ち切りたくて、何よりオリバーの取り巻きが娘のエリナを利用して王座に座らせ、裏で全てを操られる……という可能性が高いらしい。だからオリバーとエリナを殺さないといけない」
「それなら、オリバーの取り巻きを殺せば───」
「ダメだよ。君は一体何人殺すつもりなのかな?たった二人殺すだけで済むことを、無闇やたらに被害を増やすものじゃないよ」
「でも───」
「でも、じゃない。それとも何かな、君はエリナを殺せない……いや、殺したくないのかな?」
「…………」
リリアは押し黙る。確かに司令官の言っていることは正しい。被害者が増えればそれだけ警備も厳重になり、ついには組織のことがバレてしまうかもしれない。
組織も民間も、どちらも被害の少ない道はオリバーとエリナを殺すしかない。けれどどうにか、エリナを助ける方法があるはずだと、リリアは思考をめぐらせた。
しかしそんなものは出てこない。殺すことしかしてこなかった少女は、そういった頭を使うことは苦手で、戦略方面はからっきしだった。指示をこなすだけの自動人形は、自我など持ってはいけないように。
「……分かり、ました。オリバー・オリジンズと娘のエリナ、確かに……殺して、きます」
自分で言っておきながらその言葉一つ一つに躊躇する。一体誰が、スラスラと親友を殺すと言えようか。
「いい子だ。それじゃあ、行ってくるといい。サポートにはダンをつける」
「はい……」
司令官からファイルを受け取り、踵を返してミーティングルームを後にする。
──怖い。親友を殺すことが、怖い。唯一の友を喪うことが、怖い。もう、何もかもが怖かった。
少ししてダン──褐色肌の、暗殺者と言うより軍人のように体格の良い男──と合流して任務について打ち合わせを始める。
「いいんですかい、リリ嬢。このエリナって標的、あんたの親友でしょう」
「……仕事に私情は挟まない。わたしはただ、言われたことを成すだけ……」
「そうかい。まあ、それでこそ我らがリリ嬢だ」
まずはオリバーを暗殺し、その後混乱に乗じてエリナも殺す。そういう作戦が立てられた。
リリアは愛用の《Mortal-13》をセットし、屋敷に近いホテルの個室で準備万端。壁にも防音のシートを貼り、廊下や隣室には絶対に音が漏れないようになっている。尤も、ホテル外からは銃声音が聞こえてしまうのだが。
まずはオリバー。こちらは多少思い入れはあれど、存外に簡単に殺すことができた。
いつものように頭を一発。その直後にオリバー・オリジンズは息絶えた。
──あとは────
親友だけだ。
エリナの部屋も照準器をつけているためにリリアからはっきりと見えている。室内にはエリナの姿も見え、もういつでも殺すことができる状態だった。
狙いを合わせる。一撃で苦しまぬように頭に狙いを定める。
──あとは引き金を引くだけ。なのに……。
指が動かない。動かそうにも硬直してしまい、震えるだけで終わってしまう。
「ハァ──────、ハァ──────」
息が乱れる。酸欠になりそうなほど息を吸うことを忘れ、大粒の汗が頬を伝う。
──殺さないと、殺される。家族も、そして、結局エリナも────
殺さなければいけないのに、その決心ができない。できていたと思っていたのに、そんな幻想は元からどこにも存在していなかった。
少し指を動かすだけ、けれどそれすらできそうにない。
「ハァ──、ハァ───、ハァ──、ハァ───」
どんどん息が荒くなる。過呼吸に陥りそうになり、慌てて深呼吸を試してみる。それでも、やはり指は動いてくれない。
『リリ嬢、早くしないと標的が逃げるぞ』
耳にはめてあるイヤホン型の無線からダンの声が響く。
「分かってるっ……」
リリアはそんな無線に平常を装って応えるも、言葉と行動は全くもって一致しない。
有言不実行。そんな己一人の膠着状態が長続きし、終わりは一向に見えない。
『何してるんだリリ嬢。早くしないと──』
「分かってるっ!……いや、すまない。取り乱した」
『……無理なら、言ってくれれば俺が──』
「いい。これはわたしの任務、遂行できなくて何が暗殺者か」
『……なんにせよ急げ。自分で殺るにしろ、任せるにしろ、チャンスは残り僅かだ』
ダンとの会話で少し冷静さを取り戻す。けれど指は相変わらず極寒の中にあるかのように動かせない。
「ハァ────ハァ─────」
呼吸が乱れ、意識が遠のく。それを無理やり保つために、よろめいた足を支えるように銃を手すりのようにして何とか持ちこたえる。
『警備部隊がホテルに侵入した。部屋に到達するまで残り三分ってところだ』
「…………」
リリアはダンの報告でタイムリミットを悟った。
──ここで失敗しても、どうせ誰かに殺される。それなら──
せめて、自分の手で。
上がりきった心拍を下げる。深呼吸をし、乱れた呼吸を整える。
照準器は必要ない。正しく覚悟のできた今のリリアには、エリナの姿は見えている。
ただ誤算があったとすれば、それはリリアの瞳が潤んでいたということ。おかげでピントは少しズレてしまい───
放たれた弾丸。親友を殺すために撃たれた必殺は、狙った頭蓋ではなく胸元を貫いた。
リリアに有るまじき失態、けれど今回はむしろ殺せたことこそ褒めるべきだろう。
予定外に苦しみながら死んでしまった親友の胸からは血がドクドクと流れ出ている。その様が見えてしまうリリアは心を痛め、同時に今すぐにでも泣きじゃくりたかった。
けれどできない。今すぐ逃げらければリリアも殺される。
「任務……完了……」
リリアの耳には足音が聞こえてきている。大勢でリリアのいる部屋を探しているのだろう。そんな中、リリアは《Mortal-13》をケースにしまい、それを片手に窓に足をかけた。
ここは最上階であり、屋上へは縄をかければいとも容易く上ることができる。
屋上へ逃げおおせたリリアは、そこに止められていた光学迷彩という最新技術を駆使したジェット機──ダンの用意した逃走経路を利用して間一髪で部隊から逃げ延びることに成功した。
機内においてもリリアの辛気臭い表情は落ち着かず、壁にもたれかかって口を結んだままである。その瞳はどこを見ているとも知れない。
「…………」
ダンもどう声をかければいいか考えあぐねていた。そうして彼は、今はそっとしておくことにした。
小さな一雫がリリアの目尻から零れ、同期であり友人でもある彼女を上手く慰めてらやれない自分にダンは歯噛みした。
§
リリアは親友であるエリナと並んで歩いていた。けれどエリナの家の前で、ふと彼女はリリアに向かって言う。
「今日はとっても楽しかったわ!これでお別れだけど、今日はありがとう」
「……?お別れって───」
すん、と当然のことのように言い放つエリナに、リリアは困惑を隠しきれなかった。
お別れ。それはつまり今生の別れであり、完全なら離別を意味していて───
「そう。わたしとリリはこれから会えないの」
「どうして。引っ越す、とか?」
リリアの問に対し、エリナは「ふふっ」と楽しそうに笑って返す。
「『どうして』?おかしなことを言うのね。会えなくなるのは──あなたが殺したからなのに」
「───────」
途端、視界が暗転する。暗い空間、復讐を胸に秘める怨霊のようなエリナがリリアの首を掴んでかかる。
「どうして。それはこっちの台詞。親友だと思っていたのに、裏切られてしまって……こうなったらもう、やり返すしかないわよね」
「エ、エリ……ナ……」
リリアはエリナの腕を掴むも、その腕力はもはやいたいけな少女のそれを越えていた。到底リリア一人で振り払えるものではない。
「不思議。昨日まではあなたに名前を呼ばれると嬉しかったのに、今では不愉快で仕方ないの」
「がぁ─────ぁあ───────」
息が詰まる。掴まれた指は首筋にくい込んでおり、縄できつく絞めたように血の流れが塞き止められている。
やがてリリアの意識が飛びかけた時、遂にエリナはその手を首から離した。
「ケホッ……ケホッ…………」
解放され、ようやく吸い込める酸素に喉が虐められて咳き込んでいる。倒れた状態から起き上がれずにいるリリア。その頭上でエリナは右手を振り上げた。
「見て。わたしの鳩尾、あなたの弾丸で涼しくなってしまったの。風が当たって痛くて、血が流れて痛くて、痛くて痛くて痛くて痛くて……だから、同じことをすることにした」
振り上げられた右手はみるみるうちに刃のように変化していく。工具で言うところのキリのような形状の鋭い棘はやがて振り下ろされて。
「ぅ……ぐ……」
リリアの胸に深々と突き刺さる。地面に突き立てられてしまっているために僅か一ミリ動くだけでも馬鹿みたいな苦痛が襲う。
「エリ…………ナ……………………」
「苦しいかしら?でももっと、よね。やり返す時は数倍にしてお返しするって言うじゃない?」
エリナは刺した棘を──
一気に下腹部まで引き下ろした。
「ぁぁぁぁぁああああああっ──────!!」
ひどい苦痛、自身の絶叫と共にガバリと起き上がる。
「ハァ──、ハァ──。……夢……?」
自身の身体を確認するも、刺されたり引き裂かれたような傷は見受けられない。どうやら本当に夢だったようだ。
ヤケにリアルで、それでいてリリアの初めて抱いた恐怖を体現せし悪夢。
リリアは気付いた。自分が今、復讐されるという恐怖を抱いてしまっていることを。
死んだとしても、その人を覚えている限りは心の中で生き続けるという。つまりそれは、リリアの中ではエリナは永遠に生きていることを意味していて──
永遠に、果てのない復讐をされることを恐れていた。
言うなればリリアの無意識から生まれた存在であるエリナでも、それでも彼女からすればエリナである。夢の中では特に本当に生きているかのように感じてしまう。
親友を殺めた悲しみ、そして親友に殺されるという恐怖。それらはその後も止むことなく、毎晩のようにリリアの眠りを蝕み続けた。
だからだろうか。最近のリリアの狙撃にはキレがない。
腕や足に外してしまったり、最悪の場合には完全に逸れてしまったこともあった。ここに百発百中の狙撃手はその妙技を失ったのだ。
引き金を引く度に感じる恐怖、それは手元を狂わせる要因となり、リリアの能力を格段に下げていた。
「最近の君は少し不安定に過ぎる。少し休暇をとって、疲れを取り除いてくるといいよ」
ある日司令官に呼び出されたリリアはそう告げられた。
そうしてダンにも案じられ、結局休暇をとることになった。《マキシマス》の所有する別荘とも呼ぶべきコテージ。そこには誰もおらず、管理だけはされているために一人で休むには最適だった。
ドサッ。リリアは念の為に武器などが入れられたキャリーケースを壁に立てかけ、衣類の入ったバッグを床に落とす。
ログハウスのような出で立ちのコテージは小綺麗で、窓から映るビーチがとても美しく映える。自然豊かでのどかで、休暇には最適だった。
当然のようにそこでも睡眠中の復讐は続けられるのだが、仕事がない分心は少しだけ休まっていた。
バッグを開けると、中から不意にエリナとのツーショット写真が飛び出てきた。いつからかしまいこまれていたものだろう。
それを手に取ったリリアは、ポタリポタリと写真を濡らしていく。
今この一時、リリアはただのか弱い女の子になっていた。冷酷な暗殺者ではなく、親友を喪った悲しみと罪悪感に悶える憐れな子女でしかなかった。
悲劇のヒロインは咽び泣く。けれど、背後から近付いている気配は見えていた。
写真をそっとうちにしまい、立ち上がって背後を見る。
「何の用、クレイン。もしかしてあなたも休──」
言い終える前に、リリアは腕にチクリと弱い痛みを感じていた。
「悪いな、リリア。俺の雇い主──オリバー・オリジンズがお前を連れて来いと言っている」
──麻酔銃……!いや、それよりも気にするべきことがある!!
彼女の少し前先輩であるクレインの、雇い主がオリバー・オリジンズだという情報に目を回しながら、リリアは麻酔の効果で意識を手放した。