武の剣
夜風に当たっていた。
街の姿は移り変わっても、風の心地よさや行き交う人々の気配は昔と変わらない。ここから離れることも度々あったけれど、この猥雑な故郷の水が一番あっている。長い時を経ても、そこに住む人間たちの気風というものは何故か変わらずに流れ続ける。適当で、猥雑で、善人も悪党もごちゃまぜの街がやっぱり好きなのだ。
辺境の村々を行くのも好きだし、無人の荒野もそれはそれで味わいがある。だが、人と人の間に囲まれる生活が好きだ。長命種族はやがて感性が鈍り人とのふれあいが煩わしくなって深遠な深山幽谷にこもるなどと言われているが、それはちょっと知能というものを高尚に考えすぎだと思う。年を取れば取るほど涙もろくなるし、面白いことも増える。辛いことも多いが喜びも多い。少なくとも百年や二百年程度で雑念や欲求を捨てられるほど悟れやしない。
ただ、街の猥雑な空気は嫌いではないのだが、倫理機能が存在するために飲酒喫煙、酌をしてもらうような店に対してはどうしても抵抗が強い。特に私の場合は人間と関わる機会が多いために、他の同族たちよりも強めに倫理機能が設定されている。パーティーであるとか、招かれた席であるとか、限定的な状況の中でしか楽しめない。本当はもっと楽しみたいところなので残念ではある。休業中の酒場の屋上に上ったところで、夜景を楽しめるだけで酒場らしさは楽しめないのだ。
「よう、先生」
「おやエイダさん」
背中に聞こえた声は、私の弟子の一人だった。
昔から元気な子だ。最近は少しばかりくさくさしていたようだが、この店の水は合っているのだろう、どこか気分が明るくなったようで何よりだ。
「ありがとうございます、空気を読んで黙っててくれましたね」
「十年前からずっと顔が変わらないんだからびっくりしたよ。名前だって偽名だし」
「いやあ、名前だけ変えて顔を変えるのをすっかり忘れてましてね。面倒で面倒で」
「眼鏡だってそのままじゃないか。買い換えたらどうだい」
「いやはや、お言葉通りです」
私の隣にエイダさんが並んだ。
「今はオリヴィアって名乗ってるんだっけね。んで、インチキ雑誌の編集者?」
「いんちきとはなんですか、いんちきとは!」
「だって、あんなの信じてる人なんていやいないよ」
「そりゃまあウソもギャグも多いですけど、根本的なところでは真面目に実在する人物や事件を扱ってるんですけどねぇ……」
「大体あんた、本業は記者や編集者じゃなくてトレーナーだろ。色んなところに弟子を作ってるじゃないか」
「トレーナーと言う言い方もちょっと……。もっと格調高いものなんですよ」
エイダさんが私の抗議を聞いてけらけらと笑う。
師匠に対して遠慮のない生意気な子だ。それが私は嫌いじゃなかった。
「わかってるよ。あんたは魔神を倒す人間を育てるんだっけね。あたしにはちょいと荷が重かったけど」
「ふふ、構いません。私の編み出した奇門遁甲も、あるいは武芸百般なども、魔神を倒すために生み出されたものです。ですが魔神を倒すことだって、やべー奴を倒してハッピーな世の中を作ろうぜってふわっとした目的なんですから」
「なんだいそりゃ」
「つまりはまあ、それぞれ人間が幸福を求めることは良いことなのですと、トレーナーとしての私は思うのです」
「例のステッピングマンも、あんたの弟子なのかい?」
「……残念ですが、恐らくはそうでしょうね」
何十年も前に、たまたま死に損なっていた少年に飯を食わせて技術を教えたことがあった。
だがそれも半年にも満たないほんの僅かな間のことで、彼はある程度技術を物にしたらすぐに私の元から去ってしまった。今振り返ってみても才のある子だったと思う。だが彼が長く私に師事していたとして、道を過たずにいられたかはわからない。すべては仮定にすぎないし、私は根本的なところで人間ではない。寄り添って道を正すことができただろうか。
「私は精霊級精神兵装にして対魔神戦闘技能者養成プログラム『武の剣』。人間をサポートするために生まれたのです」
「それが嘘か本当かは知らないけどさ」
「いや疑わないでくださいよ、そこを」
「なんで、自分でやらないんだい?」
その問いかけに、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
そうしたいのは山々だったから。
「言ってませんでしたっけ? 私の場合、魔物の暴走や魔神の復活と言った非常事態が無い限りは武力行使に制限があるんです。特に人間相手では難しいですね」
私の言葉にエイダさんは納得のため息を漏らした。
「ああ……思い出した。あんた、いっつも酔っ払いに絡まられるとあたしにけしかけてたっけね。強いのに肝心なときに戦わないんだから困ったものだよ」
「厄介事を防ぐための仕組みなんですがねぇ。……それに今回もあなたが止めようとしてくれたじゃないですか」
「失敗しちまったけどね。出会ったのだって偶然だし」
エイダさんはやれやれと肩をすくめた。
「弟子を育てようともしてくれました」
「一日ばっかり教えただけだよ。師匠顔なんてとてもじゃないができやしないさ」
「日数はあまり関係ありませんよ。若者の才が花開く瞬間を見るのはとても良いものです」
「あんたから見て、あの小僧はどうだい?」
「見所はありますよ。でも」
「でも?」
「……兄……いや、姉かな? ともかく上の家族にツバをつけられちゃったみたいでしてね。どれだけいじって良いものかと」
「兄? 師匠に兄弟なんていたのかい?」
「こう見えても家族は多いんですよ。グレた子や寝ぼすけな子ばっかりですが」
「ふぅん……あんたみたいなのがねぇ……」
エイダさんが引きつった笑いをしている。
まあ、私のような存在がそこらに居てはたまったものではあるまい。
「まあともかく、例のステッピングマンについては任せて……うん?」
そのときだった。
真月の光が降り注ぐ夜に、影が動いた。
屋根から屋根へと跳び、俊敏に駆けていく何かが。
「……あー……いや、これはちょっとマズいですね」
「え?」
一瞬のすれ違いだが、それでも理解してしまった。アレに対しては、私の私闘を禁じる倫理機能が解除されている。つまりは非常事態を意味しており、魔物の暴走とか魔神の復活とか、それに類する事態が起きているということだ。
「あっ、ちょっと師匠!」
「すみません……助太刀に行ってきます!」
すうと息を吸い、吐いた。
奇門遁甲を極めた私には、彼らが戦う廃工場まで一っ飛びだ。
だが、彼らの居る方向に向かっている謎の影は、私に匹敵するほど迅い。
「みなさん、無事で居てくださいよ……!」
◆
荒い息づかいが廃工場の中にやけに響いた。
ニックと、そしてナルガーヴァのものだ。
ナルガーヴァは失神し、しばらくして息を吹き返した。
だが精根尽き果てたのか、微動だにしない。
そしてニックもまた、極度の疲労によってへたり込んでいた。
二人の緊迫した戦いは、勝者も敗者も等しく大きな消耗をもたらしていた。
「何故、このようなことを」
ナルガーヴァの元へ、ゼムが近寄った。
「……それはすでに話しただろう」
「あなたの言葉が正しいとして、それならば黄鬼病以外の怪我の治療や礼拝などはする必要もなかったでしょう」
「請われたからやったまでのこと。特に意味は無い」
「あなたは矛盾している。子を攫い、人々に病魔を振りまく。悪鬼の所業だ」
「ならばとどめを刺すなりギルドに突き出すなりすれば良い」
「そうでありながら、無関係な施しを建設放棄区域の人間達に与えている」
「ただの気まぐれじゃ」
「ではなぜ、隠蔽に手を抜いたのです」
「手を抜いただと?」
「さらった子供の死体の処理。追われていることに気付きながら誘拐をやめなかったこと。僕らがあなたの診療室に出向いても逃げずにそのまま居続けたこと。他にもいくつか」
ゼムの問いかけに、ナルガーヴァは無言だった。
「悪いが他にも聞かなきゃいけないことがある。『幻王宝珠』はどこで手に入れた?」
ニックの問いにもナルガーヴァは答えない。
沈黙が続いた。
再び襲いかかってくるのではないか、という一抹の不安に、全員が緊張を解かなかった。そんな『サバイバー』達など我関せずとばかりにナルガーヴァは深呼吸をして体を起こし、その場であぐらをかいた。その程度の体力は回復したようだった。
「まあ……良かろう。奴が来る前に話をするか」
「奴?」
ニックがナルガーヴァの言葉を繰り返した。
その瞬間のことだった。
「ぐああっ!」
椅子や棚などを使って塞いでいたはずの扉が突き破られた。
同時に男が転がり込んでくる。
「スコット!? お前、外で見張りをしてたはずじゃ……」
「き、気をつけろ……! やべえのが来たぞ……!」
扉を突き破ったのは、スコットの体だった。
かろうじて二本の剣を握り締めてはいるが満身創痍だ。
そのスコットの視線の先には、奇妙な騎士が居た。
「苦戦しているようだな、神官殿」
黒い鎧兜をまとい、白い仮面をつけて顔を隠した男だった。
鎧は、鉄とも皮とも違う妙に艶やかな質感だ。
そこらの鍛冶屋が作れるような代物ではない。
そして仮面は、まるで陶磁器や宝玉を削り出したかのように美しい純白だった。
装備品も、本人が纏う気配も、常人ではない。
「ねえ……。あれ、色は違うけど……」
ティアーナがひきつった声で呟いた。
ニックも、ティアーナと同じく戦慄していた。
見覚えのある外見をしていたからだ。
「あれ……やっぱり、思念鎧装だよな」




