対決ステッピングマン 3
そして二人が着地したのは、吹き抜けの広い場所だった。
「ここは倒産した洗濯業者の工場だ。経営者が浮気相手の洗濯女と一緒に夜逃げして倒産したばっかりで、けど建物が古すぎて買い手がつかねえんだとよ。そういうわけで誰も居ねえし迷惑もかからねえ。いくら暴れたって問題ねえから安心しろよ」
ニックの言う通り、がらんとした工場だ。魔女の大釜を蹴飛ばして真横にしたような巨大な洗濯用の桶が、撤去もされずほこりを被ったまま鎮座している。そんな場所に、人間二人が数メートルの高さから落下したにしては舞い散る埃があまりにもささやかすぎた。当然の如く二人とも怪我をした様子さえない。
「上手いな、流石に」
「こんなものはステッピングの基礎中の基礎じゃろう。貴様は……我流か? ならば一手教授してしんぜようか」
「それはありがてえんだが……。ティアーナ! カラン!」
「《氷盾》!」
「うるぅああああッ!」
詠唱、うなり声、そして凄まじい轟音が響き渡った。
穴の空いた天井を塞ぐように氷の盾が展開した。工場内の照明をつるす作業用の足場にティアーナが隠れて、上からナルガーヴァを見下ろしていた。同時に工場の出入り口は、カランが鉄製の棚や台車を投げ飛ばして無理矢理塞いだ。竜骨剣を抜き、ナルガーヴァを遠目から睨んでいる。
ここにおびき寄せることがニックの作戦だった。ステッピングマンの自慢の跳躍を封じ、敵の退路を断つこと。《軽身》を覚えたことも、カランが言ったブレスの真似事も、すべてはこのための布石に過ぎない。そしてまんまと嵌められたことを悟ったナルガーヴァが自嘲の笑みを浮かべた。
「見事なものじゃ……閉じ込められたというわけか」
「逃げたけりゃ逃げてみな」
「それも良いが……ここまで来るとおぬしらを片付ける方が早そうじゃの」
「そうしてくれるとありがたい……が、もう一人居るんだよ」
ニックがそう告げると、暗がりにたたずんでいた最後の男がナルガーヴァに姿を見せた。
「ナルガーヴァさん」
「ゼムか……儂に気付いたのは貴様じゃな」
「さて、どうでしょうね?」
「お互いにとぼけずとも良いじゃろう」
その言葉に、ゼムの目は普段からは想像もできないほどに鋭くなった。
「では、とぼけずに答えてもらいましょうか。何故、疫病をばら撒いたのです。あなたの娘が死んだのはこの街ではなく王都です。もっといえば、殺したのは人間ではなく病気です。それが復讐になるとでも思いますか」
「復讐か……それに近いのかもしれんな」
ナルガーヴァが、くっくと笑い始めた。
ニックは、そしてこの場に居る全員は、ナルガーヴァの笑いを初めて見た。
普段から笑い慣れていない人間が哄笑するとき特有の、えずくような息づかい。
そこに秘められた狂気の臭いに、ニックたちの背筋に寒いものが走った。
「娘を殺した病の治療方法が確立されれば、娘の死は無駄ではなくなる。価値ある死となる。名誉を回復させることもできる」
「……そんなことのために」
「そんなことじゃと?」
ナルガーヴァは目を剥き、ゼムを睨んだ。
「ええ。あなたの娘の死は悼むべきものだ。無理解と非難を受けたことは嘆かわしいことだ。ですが、あなたはそのために何人の命を奪いましたか? 一人や二人ではないはずです」
「他人に縋らねば生きていけぬ連中や、どこの生まれとも知れぬ子供が死のうと儂の知ったことではない。そう、あの子に比べれば……」
ナルガーヴァの目はゼムを睨みつつも、現在を見てはいなかった。
「儂は……つまらぬ神官じゃった。ゼム、貴様のように誰かを救ってやろうなどと思ったことなど一度も無い。若い頃は護衛専門の騎士で、荒くれ者に囲まれての血なまぐさい生活に嫌気が差してな。旅の道中、たまたま助けた上級神官に媚を売って神官となり勉学に励んだ。そして神殿内での政治に明け暮れ……できる限りの栄達を望んだ。そんな矮小な男じゃ」
「騎士だったのですか。道理で腕が立つわけです」
「治癒魔術の心得は少しばかりあったが、さほど強い後ろ盾で神官になった訳ではなかったからの。苦労したわ。だから栄達こそが儂の望みじゃった……娘が生まれるまではな」
娘、と言う瞬間のナルガーヴァの声は、どこまでも優しい響きがあった。
「赤子の頃も、幼年学校に通い出すときも、いつまでも眼に焼き付いておる。利発で、聖典などすぐに覚えてそらんじた。魔術の腕も達者で、指の骨折程度ならすぐに治した。さりとて屈託がなく、笑顔に溢れ、悪戯をしても本気で怒る人間などおらんかった。誰よりも優秀で、慈愛に溢れていた」
ナルガーヴァはぎりりと拳を握った。
「それが! 理不尽に、何の意味もなく死ぬなど、許せるものか!」
「……魔導具を買い、建設放棄区域に潜んだのはそれが理由ですか」
「魔導具が手に入ったのは巡り合わせじゃな。生き長らえるつもりもなかったが……思いついてしまったものは仕方が無かろう。なに、この先死んでしまった数よりも多くの命は救えるとも。単純な計算じゃ」
「何が仕方ないですか!」
ゼムが、叫んだ。
「この街にいるのは、あなたの目から見ればどこを見てもクズばかりでしょう! 子供だって、あなたの娘に比べれば愚か者ばかりでしょう! ですが、彼らの命を好き勝手もてあそんで神様気取りのあなたほどの残酷を許して良い理由にはならない! ヘイルさんさえ女を騙すときには一線というべきものがありました! ですがあなたには一線も躊躇も無い!」
「あの程度の小悪党と一緒にされては困るというものよ」
「ならば……ここで終わりにしましょう。罪を悔いることがないのであれば、僕もこれ以上あなたに語る言葉はありません」
ゼムの言葉と共に、ニック達が構えた。
「よかろう。そして貴様らにはそれをなしうる可能性があるのじゃろうな……賞金稼ぎごときと侮っていたことを詫びよう」
ナルガーヴァは、重苦しい息を吐いた。
肺から息を出し切り、そして吸い込む。
古びた建物がびりびりと震えそうなほどの呼気だ。
「だが……ここまで来たならば儂も加減はできぬぞ」
ナルガーヴァが本気の敵意をむきだしにした。
これまで技量をすべて守りに徹してきた男が、ついに牙を剥いた。一個人としては相当な実力者だ。ニックは、ここまで強い人間と相対した経験など数えるほどしかない。それこそ師匠アルガスとの組手を思い出すほどの迫力だとニックは感じた。
だが、状況は決定的に違う。師匠との組手では、明日のために、次のために、本番のために、果敢に立ち向かうものだった。そして良いように突かれ、蹴られ、転ばされ、敗北した。だが今目指す場所は明日などではない。相手は人さらいなどと言う生半可な言葉では済まされない。疫病を振りまく伝説の悪鬼にさえ近い。今このときは、決して負けてはいけない本番だ。
「……行くぞ!」
ニックの声と共に、【サバイバー】の全員が動いた。