迷宮捜査網 3
遅くなってしまった。
本来なら日が落ちる前に帰る予定だったのに。
パン屋で働くニナは弟や妹が多く、そして父の稼ぎは少ない。ニナの父はガラス職人だ。本来ならば小さな工房で汗みずくになってグラスや皿などを作っていた。鮮やかな青いガラス製品は父の自慢で評価する人も多い。ただ最近は、不景気のあおりを食らって売上が落ちていた。そんな中、父の友人の卸問屋に誘われて父は露店を出すようになった。太陽の光を涼やかに照り返す父のガラス製品は少しずつ評判になった。ニナはそれを誇らしく思っていた。
……が、ついこの間、謎の虎の化け物が父の露天のガラス細工をめちゃめちゃに壊してしまった。そして父自身も運悪く腕の骨を折ってしまい、仕事を休まざるを得なくなった。不幸中の幸いと言うべきか、虎の化け物はたまたま通り過ぎただけのようで死人こそ出なかったらしい。そしてたまたま通りすがっただけの謎の美貌のパラディンに捕らえられたらしく、そのパラディンを褒め称える歌が色んな酒場や公園で流れている。
だがニナの父にとって、そしてニナの家庭にとって、致命的な被害が出たことには変わりはない。その虎だか人だかわからない相手に壊した商品を弁償してもらいたいところだったが、他にも詐欺を受けたとか、とばっちりで怪我をしたとかの被害者がたくさん居て事件の全貌をまとめるのが大変らしく、裁判がいつ開くかもわからない。更には、ニナの父を露店に誘った卸問屋は父に責められたり借金を求められるのを恐れて知らんぷりしたまま雲隠れしてしまった。ニナの父にとってはそれが何よりのショックだった。「難癖を付けるつもりなどなかったのに」と恨み言を呟きながら床に伏せっていた。腕を折ったことよりも、その方が重症かもしれないとニナは感じていた。ニナにとって父に起きた不幸の一から十までまったくわけがわからず筋が通ってないと感じたが、大人達がそう言っているので、そういうものなのだと納得するしかなかった。
だからニナは、自分でできることをした。
学校に通っていたが、卒業を諦めて読み書きと算盤の授業だけに絞って受けることにした。授業のある日は午前中だけ受けて午後は働き、授業の無い日はすべて仕事にあてることにした。そういう子は珍しくはない。ただ、貧乏の子だと侮られるだけで。南部の子供の裕福さなど北部に比べたらどんぐりの背比べのようなものだが、それでも目に見える格差は確かにあった。
幸いにして職場の人間は優しく、ニナのような子供でも優しく受け入れてくれた。ただそれでも働く以上は一人前の仕事を要求されたし、忙しい日は残業を申しつけられる。特に今日は、馬車や竜車をたくさん率いた大きな隊商が迷宮都市に入ってきたらしく、繁華街はどこもかしこも大忙しだった。既に辺りは真っ暗だ。酔っ払いが騒いでいて、ニナのような子供が歩いていたら何をされるかわからない。ニナはあまり自覚は無いが、母譲りの美貌がその顔に目覚め始めていた。怪しい目で見てくる男も増えつつある。だから、
「やだなぁ、酔っ払った大人って」
酔っ払いのいない、人気のいない道を選んだ。
それが間違いだった。
「……ん?」
足音がした……という気がした。
かつんかつんという、木靴が石畳を踏みしめる音が聞こえるわけではない。ぺたんぺたんという安物のサンダルが石畳にひっついて剥がれる音が聞こえるわけでもない。というか、音そのものが聞こえるわけではない。言葉で説明しようのない温度のような湿度のような、「誰かそこにいる気がする」という根拠の無い勘だ。
どうせ後ろを振り返っても誰もいない。
友達から幽霊やおばけの話で脅かされて眠れない夜もあったけれど、結局何も出はしなかったのだ。
「んんー!? んっ、んんー!!!」
そうであれば良かったのに。
ニナは、あっという間に口を塞がれた。パニックになって手足を振り回しても意味が無い。大人の男にはかないっこない。子供のニナが勝るものなどすばしっこさや小さな体を活かした逃げ足くらいのものだろうが、背後から捕らえられれば逃げられるはずもない。しかも、
「なっ、なんで……なにも、見えな……」
自分の口を塞ぐ手も、上半身を抑え込む腕も、何も見えないのだ。ただニナは泣きながら、身動きを封じられた。
「安心するが良い、とりあえず死にはせぬ。大人しくしていれば、だが」
男のささやきが聞こえて、びくりとニナは動きを止めた。
ここで抗えるほど蛮勇でも勇敢でもなかった。
「さて、この間は邪魔されたが今回は……」
「ぬわわわわわーーー!!!???」
「ぐはっ!?」
だが、ニナが動かなかったことは結果的に正解だった。
そこに新たな謎の少女だか少年だかが飛び込んできて、男に襲いかかったのだ。
◆
「くそっ……同じ手に二度もやられるとは……!」
「それはおぬしが間抜けということじゃ……いかん、力を使いすぎた、誰か頼んだぞ」
ステッピングマンの居所を掴むためにもっとも貢献したのはキズナだった。
オリヴィアによって出現範囲や時間帯が絞られたとはいえ、迷宮都市は広い。だがキズナが《並列》と《探索》を駆使して相手の姿を捉えることができた。そしてキズナを除く全員が、ゼムの用意した幻惑避けの薬を飲んでいた。ステッピングマンの武器の半分……姿を誤魔化すことは、これで対処できる。
そして残りの半分……化け物じみた身軽さについては、
「実力でなんとかするっきゃねえな。キズナ、お前はその子と逃げろ!」
ニックが、ステッピングマンと少女の間に割り込み短剣を振るった。
ステッピングマンがバックステップして避ける。
攻撃は当てられていないが、時間稼ぎには十分だった。
キズナが体勢を立て直し、少女の手を引いて離れていく。
「きさま……!」
ステッピングマンが怒りの形相でキズナを睨むが、既に一手遅かった。
「幾らでも睨むが良いわ。我のスマイルは0ディナじゃからの……! ティアーナ、今じゃ!」
「なーるほど、姿は隠せてたみたいだけど魔力は隠し切れてないみたいね……《氷槍》!」
花弁を口にくわえたティアーナが魔術を唱える。
杖の先から一本の杭のような氷が撃ち出された。
「ぐっ……《金剛盾》!」
だがステッピングマンはすぐに対抗手段を放つ。
土属性の魔術。魔術で生み出した擬似的な金剛石の盾だ。
冷気や電撃、単純な物理攻撃には強い耐性を持っている。
その代わり、火や熱には弱い。
「カラン、火だ!」
「ガアッ!」
そこに、カランが《ファイアブレス》を吐いた。《金剛盾》は飴細工のように溶けていく。だがステッピングマンはすでに盾の後ろには隠れていない。
「どこ!?」
「上です、ティアーナさん!」
後ろに控えていたゼムが叫んだ瞬間、ティアーナは確認もせずに横に跳ねた。
ティアーナが立っていた場所に、まるで雷光のような速さでステッピングマンが落ちてきた。片手剣を逆手に持ち、突き刺すつもりのそれは必殺の一撃だった。そこに、ニックがティアーナとステッピングマンの間に割り込む。体勢が崩れたステッピングマンを蹴り飛ばした。
「あ、やべ」
足に伝わる感触がニックに失敗を告げている。
あまりにも手応えが軽いというのに勢いよく吹っ飛ばされてる。
蹴りの力を利用して後方に大きく距離を取り、そのままステッピングマンは背中を見せて走り出した。
「待テッ!」
カランが走りながら《ファイアブレス》を火球の形状で放つ。
ステッピングマンが気配だけで避ける。
手練れだ。
後ろからの飛び道具も、勘だけで避けている。
だが、その避けた方向を狙い澄ましてニックが短剣を投擲した。
「……くそっ!」
だが、一歩遅かった。
ステッピングマンは大地を蹴り、そして建物の壁を蹴り、高々と飛び上がっていく。
屋根へと飛び乗り、建物から建物へと飛び跳ね、あっという間に見せる背中が小さくなる。
「あーもう! 逃げるなーこんちくしょー!」
ティアーナが悔しそうに罵声をステッピングマンに浴びせかける。
だがもちろん、返ってくる言葉も無い。
ふう、とニックが大きく溜め息をついた。
「……まあ、逃がしはしたが悪くねえ結果だ。出現した場所、逃げる方向、戦い方。手がかりもずいぶん増えた。それに」
「誘拐そのものは防ぎましたからね。僕らにとってはまだ勝利ではなくとも、向こうにとっては間違いなく敗北です」
ニックの慰めの言葉に、ゼムが補足する。
「んじゃ、ギルドに戻るか。ちょっと休もうぜ」
全員、落胆していた気持ちを切り替えて冒険者ギルド『マンハント』へと向かうことにした。バラバラになったときの待ち合わせに指定していたためだ。少女とともに逃げたキズナと合流しなければいけない。
「……うん?」
その道中、ニックは歩みを止めた。
他の仲間もつられて足を止める。
「お嬢ちゃん二人に男が二人か。物騒な場所だってのにのんきだねえ」
「へへへ、しかも良いローブ着てるじゃねえか」
「金目の物を置いてきな」
「それとも遊んでくかい? げへへ……」
闇夜から男が十人ほど現れ、ニック達を囲んだ。
どうやら先ほどの戦いを目にしてはいなかったようで、完全にニック達を侮っている。
「恐喝に慣れてるな……賞金掛かってるかもしれねえ」
「あ、やった。ゼム、知り合いとか居ないわよね?」
「居るわけないですよ。居ても別に構いませんよ」
「んじゃ、やるカ」
カランが、ふうと息を吐いた。
全員に若干嬉しそうな気配すらあった。
賞金首を逃した消化不良の感覚が、全員を昂ぶらせていた。
その気配が男達に伝わり、ぴしりと怒りを燃え上がらせた。
「生意気言いやがって! 強そうなのはそこの竜人だけだ、やっちまえ!!!」
◆
「……何しとるんじゃ、おぬしら?」
「おう、キズナ。女の子はどうした?」
すったもんだしている内に、キズナの方が先にニック達を見つけていた。
ニックは言うまでも無いとキズナの問いはスルーしつつ尋ね返す。
「近くにあの子の家があったから送ってきたぞ。んで、なんじゃそれ」
「ちょっとな。手伝ってくれ」
キズナは呆れながらも、男達を縛るニックを手伝った。
七人は完全に失神しており、残る三人はたんこぶだらけの顔をしていた。
既に実力差を思い知ったのか、反抗する気など無さそうだ。
「良いか、縄を縛るときは、こうだ。こうやってわっかを作ってここに通すんだが……よし、やってみろ」
「わかったわ」
縛り方の練習台にされた男が、なんとも微妙な顔をしながらニックの顔を見た。
「お、俺達で縛り方の練習とかしないでくれよ……」
「悪いな、ちょっと我慢してくれ。つーかその縛り方だと痛いだろ」
「そうだけどよぉ……」
襲いかかって返り討ちにされた男は弱々しい抗議をしつつも、ティアーナのされるがままにされている。
氷漬けか火だるまにならないだけ良かっただろうとニックは密かに思っていた。
ニックはそんな風に全員に縄の扱い方を教授しつつ冒険者ギルド『マンハント』へ向かった。