吟遊詩人アゲート/パラディンの伝説 4
「あ、れ……? 痛く無い……?」
死ぬ時って意外と痛くないんだ。
などと、ベルは途方も無い勘違いをしていた。
「「怪我は無い?」」
「えっ……?」
ベルが目を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
氷の世界だ。
まるで透明なガラスのごとき氷の壁がそこかしこに地面から生えている。
巨大な黒檀のテーブルさえも地面から生えた氷柱によってぴたりと動きを止めて、ベルや逃げ惑う客達を守っている。
魔術だ。
確か《氷盾》という防御のための魔術で、街道に出てきた魔物を倒すときに冒険者が使っているのを一度だけ見たことがある。
だが、こんな派手な規模で使われることなど、ベルは見たことも無かった。
弓矢や反対属性の魔術を防ぐのがせいぜいで、百キロに迫りそうな木のテーブルを防ぐほど強靱なものではない。そもそも盾であってこんな壁ではない。
このすさまじい大魔術を唱えた人間は、涼しい顔をしていた。
ベルは、自分の状況も、自分の職業さえも忘れて謎の魔術師の顔に見入った。
なんて。
なんて美しい横顔だろう。
吟遊詩人を見慣れた自分でさえもうっとりするほどの美女だ。
気高さと美しさの両立した金色の髪。
女性的でありながらも引き締まった、張り詰めた弓のような神秘的な体つき。
なによりも、凛として、男のようにも見える研ぎ澄まされた美貌。
「あっ、あ、ありが……とう……?」
「「どういたしまして、吟遊詩人さん」」
だが微笑む顔は女神のように汲めど尽きせぬ愛に溢れている。
そして彼女の言葉を理解して、ベルの胸がどきりと高鳴った。
私が、吟遊詩人だって知ってるんだ。
「「すぐに片付けてくるから、もう少し下がっていることね」」
「ひゃ、ひゃい!」
だがそんな会話によって、暴虐の中心にいる存在が気付いた。
「ようやく見つけたぜ、その臭い間違いなくニック……あれ?」
「「往生際の悪い虎ね。相手をしてあげる」」
「誰だ手前!?」
虎が激昂し、うなり声を上げた。
だがベルはその声を聞いても、まったく怯えなかった。
自分の身を守った魔術師が負ける姿など、まったく想像できなかった。
◆
合体したニック達……ニック/ティアーナは、凄まじい魔力が体に満ち満ちていた。
その溢れんばかりの魔力を使い、限定的な「厳冬」を召喚した。
一時的に氷や冷気を放つのでは無く、周囲一帯の冷気を思うがままに操る結界の魔術《氷河》だ。
結界内であれば好きなときに好きな場所、好きな形状で《氷盾》などの魔術を発動させることもできる。
あるいは、
「ぐおおおっ!!!」
レオンが飛びかかった。
凄まじい重量と速度で襲いかかる。
そこに、槍のごとき巨大な氷の柱が貫いた。
「「《氷槍》」」
天上、壁、床の四方八方から、氷の槍が生え、飛び出してきた。
氷柱舞の上位呪文で、本来は一本の氷の杭を撃ち出す魔術だ。
だがそれを、ニック/ティアーナは任意の場所から縦横無尽に放った。
「ぐがあああっ!? な、なんだこの魔法は……!!!」
『焦るな、レオン。我輩がついているぞ……。さあ、狂うが良い!』
「うおおおおお!!!」
奇妙な声が響くと同時に、驚愕の事態が起きた。
虎の魔物となったレオンの四肢が、ぐぐぐと膨らんだ。
風船のように膨らんだわけではない。
硬い肉体が、さらに硬く大きくなった。
ただひたすら筋肉の収縮だけで、氷の槍を打ち砕いた。
傷穴も、まるで何事もなかったかのように修復されていく。
「ふぅうう……」
『良いぞレオン。その調子で我を使いこなしてゆけ』
「うるせえ……好きに暴れさせろ……!」
「「なんだ、一人じゃないのか……?」」
レオンと謎の声の異様な会話にニック/ティアーナは怪訝な顔をする。
そこに口を挟んだのは、絆の剣だった。
『その声……やはり貴様、進化の剣じゃな』
『そういう貴様は、絆の剣だな……数百年ぶりか』
「「キズナ、知ってるのか?」」
『う、うむ……我と同時代に開発されたものじゃ』
『絆の剣の所有者よ。我は進化の剣改め、狂月の剣。我こそ聖剣である……と名乗りたいところだが、魔王討伐計画の採用試験で敗退した身ではあるがな。こうして時代が過ぎ去って別の聖剣と邂逅するとは因果なものだ』
どこかシニカルな狂月の剣の言葉に、絆の剣が怒りを露にする。
『たわけ! 貴様は敗退以前にレギュレーション違反で失格であろうが! そこな使い手よ! 進化の剣を使い続ければ人間を辞めることになるぞ!』
「「に、人間を辞める……!?」」
ニック/ティアーナが驚きの声を漏らした。
『うむ。我の権能《合体》のようにこやつにも権能がある。それは《進化》と言って……』
絆の剣が説明しようとした瞬間、
「ごちゃごちゃうるせえ!」
レオンが再び、ニック/ティアーナに襲いかかってきた。
「「話を聞け!」」
「今更関係あるか! 手前をブッ殺せるならどうだって良いんだよ!!!」
「「くっ、レオン! そんな短絡的な奴じゃないでしょう! もっと、こう……姑息な感じの!」」
「やかましい!!!」
レオンの握る狂月の剣は、絆の剣と同じく魔力によって形作られている。
月のような黄金の輝きが狂月の剣から迸り、ニック/ティアーナに襲いかかった。
『やめておけ。奴は狂月の剣によって極度の興奮状態にある。言葉は発してもまともに話が通じると思わぬ方が良い』
「「ひどい奴だな……。魔剣って人間を狂わせちゃいけないんじゃなかったのか」」
『狂わせてはいけないから開発競争からは脱落して封印されておったのじゃろう。まったく、こんな危険なものに頼るとは……』
『ふふん、何とでも言うがよい。しかし絆の剣と相まみえるのは初めてだが、この程度であったとは落胆してしまうな。我が権能《進化》の前には取るに足らぬものということか』
嘲笑の声色で、狂月の剣が呟いた。
『……ふん、それはこちらの台詞じゃ。力任せの攻撃など』
『魔法の攻撃は通用しない。膂力もこちらが上。まだまだ本気からは遠いぞ? 絆の剣よ。どうするつもりだ?』
「「ごちゃごちゃうるさい! 戦ってるのはオレ達とレオンだ!!!」」
鍔迫り合いしている最中に、稲光のような光が走った。
「ぐがっ!?」
「「杖と剣を兼ね備えるって便利なもんだな……魔法剣とでも名付けるか?」」
レオンの体から煙のようなものが吹き出た。
腕全体が無残に焦げている。
近接距離で《雷光》を食らったのだ。
そしてレオンが怯んだ隙に、再び氷の槍が何度となくレオンの体を貫く。
「「どうだ!」」
『器用なものだな……だがこちらは幾らでも復活できるぞ』
狂月の剣が再び輝き出す。
そしてまた、何事も無かったかのようにレオンの肉体が再生した。
ただの再生ではない。一回り大きくなっている。
傷を治すと同時に、より強く「進化」したのだ。
『ふはははは! こちらの方はスロースターターだが、今受けた攻撃はすべて覚えたぞ! 次は通用せぬ! 我を倒す方法など無かろう!』
「「いや、まあ、三通りくらいはあるけど」」
『……は?』
「「単純な話、あなたを壊せばそれでお仕舞い。あるいはもう、ダメージを与えるとかじゃなくて氷漬けにすれば良いし」」
『……はっ、ハッタリを弄するとは意外に小心者だな。やれるのならばなぜやらない?』
「「証拠物件になるお前を壊したら後が面倒だし、レオンは賠償金の支払いどころか査定さえも終わってないでしょう? 死なれちゃ被害者全員が困っちゃう。そういうわけで……」」
ニック/ティアーナが蠱惑的に微笑みながら、床に転がっているものをひょいと拾った。
「「一番優しい方法でサレンダーさせてあげるわ」」
ニック/ティアーナが手にしたのは、カジノでは当たり前にありふれているもの。
カードの束だった。