酒場の歌い手ベル=ハギンズ、あるいは吟遊詩人アゲート
(あーあ、なんでこんなことになっちゃったんだろ……)
ベル=ハギンズは、カジノのカード賭博に熱中する恋人を横目で見ながら溜め息をこぼした。
「ベル、今に倍にして返してやるからな……!」
「ああ、うん……無理しないでね」
ベルの彼氏のドニーは、賭博師だ。
ただし、自称が付く。
実際のところは日雇いの仕事を転々としており、本日に限って言えばただの無職だった。
昔はこんな男ではなかった。
自分だけのレストランを構えて迷宮都市一番のコックになるのだと夢を語り、毎日酒場の厨房でひたむきに働く真面目な男だった。
その夢を、ベルは一途に応援した。
ドニーの働く酒場に通い、あるいは手伝ったりもした。
ベルは昔から歌が好きで、吟遊詩人の真似事をして客を楽しませたりした。
そんな、貧しくも楽しい日々を送っていた頃だった。
「吟遊詩人になりませんか?」
ある日、酒場にスカウトが来た。
最初はベルも冗談か詐欺かと思った。
繁華街はあまりガラが良くない。吟遊詩人になると言って、タチの悪い娼館に引き込もうとする人間だっている。
だがドニーが、「別に、一度話を聞くくらいなら良いんじゃないか?」という何も考えてない相槌に従い、ついついスカウトにつれられて事務所へ遊びに行くことになった。
まさかの本物だった。
呼ばれた場所は、ジュエリープロダクション。
本物の、吟遊詩人事務所だった。
番付で一番人気のシトリンや、国内ライブツアーで名を馳せるガーネットなど、そうそうたる顔ぶれが所属する場所で、ベルは「アゲート」という芸名を貰って活動することとなった。
突然、ベルの日常は目まぐるしく変わっていった。
ボイストレーニングやダンスレッスンを受けることになった。
タダで石鹸や香油が支給されるようになった。
友達ができた。
暗い過去や傷口を慰め合う憐憫に満ちた関係ではなく、共に夢や明るい未来を追いかける、そんな友達が。
もちろん、同じ吟遊詩人であるからにはライバルであり、やっかまれたり喧嘩を売られたこともあった。だがそこには、同じ舞台を賭けるという真剣味があった。だらだらと布団の中で憎い相手の不幸を願うだらしない呪いなどとはまったく違っていて、研ぎ澄まされた刃で斬られるような鮮やかな痛み。それはベルを一層、吟遊詩人への道へと傾倒させていった。ベルは、負けず嫌いだった。
そしてベルは、初めての舞台に立った。
公園のステージで、ガーネットの前座を務めた。
上手く踊れたかどうか、ちゃんと歌えたかどうか、ベルはまったく覚えていない。
とんでもないポカをやったような気もするが、無我夢中で記憶が曖昧だった。
目が眩むほどの明るさと血が沸騰するような熱狂だけを覚えている。
そこから、少しずつファンが増えていった。
「歌が良い」と言われるようになった。
ベルは声や喉に自信があるがダンスは今も苦手で、歌一筋というキャラクターを作ることで誤魔化している。それもまた「ストイックな姿勢だ」と好意的に受け止められるようになった。
だがそんな成功を手に入れる度に、恋人のドニーは堕落していった。
ベルが吟遊詩人になってすぐ、酒場の店長と揉め事を起こして辞めた。その後も店を転々とし、ベルが初舞台に立つ頃には飲食業に就くことさえ厭うようになった。遊び程度に済ませていた賭博にのめり込むようになった。まるでベルの成功と鏡写しの如く、ドニーは人生を少しずつ踏み外し、そしてベルから借りた金の額面が膨らんでいった。
(私のせいなのかな……)
ベルは、溜息をつきながらドニーを見守った。
見捨てられなかった。
きっとこれが、成功の代償なのだ。
そう、思い込もうとした。
だがその一方で、心の何処かで気付いていた。
自分は純粋にドニーの夢を応援したのに、ドニーは自分を応援したり祝福してくれることなど一度も無かったということに。
「ねえ、ドニー。もう帰ろう……? お金なんて良いよ……」
「ああ、なんだって!? ここで引けるわけないだろ!」
「でも」
そんなこと言って、また素寒貧になってみっともなく私に頭を下げるに決まっているのに。
ベルは吟遊詩人としての成功を収めつつあるのに、心は寒々としていた。
どうして。
どうしてこんなことになったのだろう。
この人のことが、この人の語る夢が、好きだったのに。
「ねえ、ドニー……」
「うるさい! 今、集中して……」
そんなとき、カジノに地震のような揺れが走った。
ピアニストの演奏が止まり、何事かと戸惑う人々のどよめきがベルの耳に届く。
そして、異変の答えはすぐに現れた。
「グオオオオオォォ……!!!」
凄まじい咆吼が響き渡ったのだ。
「なっ、なんだ!? 虎の魔物!?」
「馬鹿いえ、ここは都市の中だぞ! 瘴気も無いのに……!」
「にっ、逃げろ!!!」
そこから、阿鼻叫喚の渦に包まれた。
卓が倒れ、イスが砕け、人が弾き飛ばされていく。
なにこれ。
ベルは、呆気にとられて見ていた。
彼氏との関係を見直すべきかどうか真剣に考えていたベルにとって、目の前の光景はあまりにも非現実的すぎた。だが、やがて、
「あっ、に、逃げなきゃ」
そう思った瞬間隣を見ると、既にドニーの姿は消えていた。
「えっ、ど、ドニー? どこ……?」
既に、一心不乱にドニーは走っている。
ベルを置き去りにして。
「う、嘘でしょ……」
ベルはそのドニーの背中を見て、へたりこんだ。
何のために私はここにいるのか。
何のためにあの人のために頑張ったのか。
「あっ……」
だが現実は、ベルが悲嘆に溺れることを許さなかった。
硬く重い、十人以上も掛けるような巨大な黒檀のテーブルが宙を舞っていた。
暴れた虎によって弾き飛ばされ、そして今、ベルを押し潰さんとしている。
ベルは、それを呆けたように見つめた。
一秒にも満たない時間が、永遠にさえ感じるほどに生々しく見えた。
(終わるんだ……こんなところで……)
ああ、そうか。
全部、夢だったんだ。
吟遊詩人として成功したことも。
恋人のドニーと破綻したことも。
目が覚めればいつものボロい宿の薄い布団にくるまっていて、酒場で働くドニーの手伝いをしにいくのだ。
そして、ベルは目を瞑り、今生に別れを告げた。
「「おっと、吟遊詩人ならちゃんと顔は守るもんだぜ」」
だが、その諦観を阻む者が、ここに一人居た。




