さんすうベアナックル 10
ニック達の試合が終わっても、カランは表情を動かさなかった。
目を瞑って集中し、今まで勉強した内容を頭の中で反芻していた。
竜人族の里は……というより、都市部から離れた辺境の集落のほとんどでは、さほど教育は重要視されていない。一方で古代文明の痕跡が色濃く残る迷宮都市や王都であれば学校や教育の重要さがなんとはなしに共有されているため、「子供を学校に通わせる」という常識が根付いている。そのために、明らかな格差ができた。
それゆえ迷宮都市にはカランのように騙される人間が、そしてクロディーヌのように誰かを騙そうとする人間が、数多く存在する。カランのように騙された人間を哀れに思う人間は、まあ、それなりに居る。だがしかしほとんどは遠巻きに見て哀れむだけで、根本的なところでどうこうしようとは思わない。田舎者が騙されるのはある種の通過儀礼のようなものだとさえ思われている。だから、手を差し伸べる人間など滅多にいない。「勉強しろ」とぷりぷり怒る人間は、本当に、本当に、少ない。
「ちょっとあんた、寝てんの?」
「うるさイ」
「なっ……人が注意してやったのに、その言い草はなによ!?」
向かい合って座るクロディーヌを、薄目で睨む。
それだけでクロディーヌは、おびえたように黙った。
カランにはまったく理解できなかった。
ニックがあんな女に貢いでいたという事実が。
「オマエ、なんでそんな生活してるんダ?」
「はあ?」
「何か好きなことないのカ?」
「……あんた、喧嘩売ってんの?」
「別に、無いなら良イ」
カランはそう言って、ぷいっと視線を外した。
クロディーヌが掴みかからんばかりに睨む。
「喧嘩がしたけりゃ後でやりな」
ヴィルマが二人の元にやってきた。
「男共の勝負は決着が付かなかった。次はあんたらだ。良いね?」
「良いわよ」「わかっタ」
「制限時間は拳闘と同じく5分。まずは基礎的な問題を出すからそれを解いてもらう。多分、普通の頭なら満点は取れるよ。だが試合数が重なる度に難しくなってくからね。それじゃあ、用意……始め!」
カランとクロディーヌが同時に問題用紙をめくった。
そこにあったのは、ごくごく簡単な四則演算の問題だった。
2桁、3桁程度の数字を足したり引いたりするだけの問題だ。
(よかった、わかル……)
カランは、手応えを感じた。
ニックやゼムに勉強を教わった時間はまだ一ヶ月に満たないが、それでも着実に力になっている。頭の中で何気ない暗算もできるようになった。できることが一つ一つ増えていく。その結果を試すことができる。隣の人間に対する敵意さえも忘れて、カランはペンを走らせた。
「……よし、そこまで!」
五分はあっという間に過ぎた。
カランも、クロディーヌも、まったく同じ答えを答案に書いていた。
当然の如く結果はつかず、再び次の勝負……ニックとレオンの拳闘に持ち込まれた。
◆
結局、3ラウンドまで膠着状態が続いた。
だが、4ラウンド目から変化が起きた。
「カランは90点、クロディーヌが100点だね」
ヴィルマが冷徹に言い放つ。
ここでハンデが発生した。
十点以上差が付いた場合は拳闘の試合でハンデが発生する。
相手を一発だけ、一方的に殴ることができるのだ。
カランが、悔しそうに歯を食いしばった。
「今からそんな調子でどうするのよ、これから差がどんどん出てくるわよ」
クロディーヌの嘲笑がカランに向けられた。
そして拳闘の試合場の方で、ニックとレオンが距離を詰めて向かい合った。
「さあて、それじゃあどこを殴ろうかね」
「さっさとやれ」
「おうよ」
レオンが顔を殴ると見せかけて腹にフックを入れた。
「ぐっ……」
「ちっ……! 手前、本当に普人かよ」
殴った方のレオンが毒づいた。
ニックは黙って殴られたが、痛みに喘ぐことはしなかった。
体を瞬間的に引き締めてダメージを逃がす術を習得しているためだ。
完全にゼロにすることはできないが、ダメージを受けていないように見せることはできる。
だがニックが自分の無傷を見せつけたい相手は、レオンではなかった。
「カラン!」
「に、ニック」
「こんなへっぴり腰の拳、何発もらおうとオレぁ問題無い。目の前のことに集中しろ」
自分が殴られたような顔をしているカランを、励ましたかった。
「……わかっタ!」
カランの顔が引き締まった。
だがニックの言葉を聞き、再び瞑想するように目を瞑った。
「……言うじゃねえか」
「言われたくなきゃかかってきやがれ」
◆
「レオン! なにを逃げてんだ! 攻めろ!」
「ニック! とどめさせ! 舐められてんじゃねえぞ!」
試合がまた膠着した。
今は6ラウンド目。
4ラウンドと同じように算数のテストでの点差がつき、1ラウンドが始まる毎にニックは一発もらった。だがレオンはそれでも勝負に出ようとはしなかった。
既に観客達にも、レオンが引き延ばしを狙っていることが露見していた。
たまに見せる攻めっ気も、あくまでサボタージュと見られないためだけのポーズだ。
「そこまで!」
ニックの拳を避け続けたレオンが、危なげない足取りで自分のコーナーに戻る。
観客達の罵声など気にも留めない。
そして再び、カランとクロディーヌの戦いとなった。
そろそろ、カランの即席の知識も底が見え始めた。
だが、まだなんとか食らいついている。
カランもクロディーヌも、ほぼ満点の答案を出してニック達の試合に持ち込んでいた。
今回はまだ決着が付かないだろうが、次か次の次あたりでは勝負が見えるだろう。
「ねえ、ちょっと良いかしら」
そんな予感が蔓延した中で、ティアーナが声を上げた。
「なんだい、サバイバーの魔術師」
「ティアーナよ。……あのさぁ、もうまとめてやってよ」
「まとめて?」
「ちまちまちまちまと、いつまで経っても勝負が決まらないじゃない。筆記試験の問題だってまだ何回分もあるんでしょ。それをまとめてやってって言ってるのよ」
「ふむ」
ヴィルマが考え込み始めた。
だが、周囲の人間からはブーイングのような賛成の声が響いた。
「そうだそうだ! さっさと決めろ!」
「いつまで引き延ばしてんだ!」
「おだまり! 勝負方法を決めるのは決闘する連中だよ! それともあんたらが殴り合うかい!」
ヴィルマの凄まじい怒声が響き渡ると、観客達はぴたりと罵声を止めた。
「……で、どうするね。クロディーヌ」
「え、そ、そりゃあ……願ったり叶ったりだけど」
クロディーヌはいぶかしげな目でカランを見た。
これに有利なのは明らかにクロディーヌだ。
ごく簡単な計算問題を解く程度で差は付かないが、難易度が上がればこちらのものだ。
知能で竜人族ごときに劣るはずがないとクロディーヌは思っている。
それに何より、クロディーヌ達には奥の手がある。
「あんたはどうだい?」
ヴィルマがカランに目を向ける。
「望むところダ」
カランは腕を組み、何の不安も無く言い切った。
「……よし。では制限時間30分で、解けるだけ解きな」
ヴィルマが問題用紙を準備し始めた。
紙束がどさりと二人の机に並べられる。
「多分、全て答えるのは無理だろう。一番難易度が高いのは、貴族学校を卒業できるくらいの知識が問われるからね。解ける問題を焦らず解きな。……それじゃあ、始めるよ」
そしてヴィルマが、開始の鐘を鳴らした。
「ええっ!?」
そのとき、驚くべきことが起きた。
カランを眺めていた観客達がどよめく。
カランが、怒濤の如く問題を解き始めたのだ。
凄まじい速さでペンを走らせ、計算用に渡された白紙に数式が列挙されていく。
そして弾き出された答えが答案に書かれる。
舞台の緞帳が開くようにばさりと問題用紙をめくり、新たな問題をどんどん解いていく。
「うっ、ウソでしょ……?」
クロディーヌは思わずカランの顔を見る。
カランの顔は、真剣そのものだった。
クロディーヌの顔から余裕の微笑みが消え、驚愕に染まった。