白仮面再び 3
コミックス2巻発売しました!
川上真樹先生がとても素晴らしい漫画に仕立ててくれました。
ぜひどうぞ御覧ください。
アリスから得たヒントをもとにニックがイメージしたのは、大道芸人が操る独楽だ。
独楽が静止しているときは、当然倒れる。接地面が小さすぎるからだ。
だが回転しているときは直立する。
高速で回れば回るほどに安定する。
器用な芸人であれば煙管や扇子の上で回したり、あるいはロープの端から端まで動かすこともできる。
流石に90度の壁に直立することはできないが、ほぼ垂直に近い傾斜や僅かなひっかかりさえあれば、姿勢を保つことができる。
そして何かにぶつかれば、激しい衝撃を与える。
「体の外側は動かさずに、体の中だけで回転運動を起こす。それもできるだけ速く」
《重身》と《軽身》を同時に唱え、その重くなる場所と軽くなる場所をぐるぐると回し始めた。ニックは、自分の体を動かさずに、体の中だけで回転運動を発生させ始めた。
「お、お……? なるほど、こういう感覚か……そうか、これで俺は壁を蹴ったんだな」
ニックは手応えをつかみ、野性的な笑みを浮かべた。
しかしここは、バランスを崩したら再び真っ逆さまに落ちかねない断崖絶壁だ。
一歩踏み外せば死ぬ。
アリスの言う通り、動かずじっと待っているのが得策だ。
だがそれでも、ニックは動くことを選択した。
目をつぶり、思い出す。
【武芸百般】に居た頃を。
修行中の身だった自分を。
「余計なことは考えるな。今だけは」
そして、一歩を踏み出した。
体を水平に倒す。
ほぼ壁に直立している状態でありながら、ニックは微動だにしていない。
そして慎重にもう一歩を踏み出す。
このとき、軸が二つになってはいけないことをニックは本能的に察した。
「独楽に足は二つも存在しない。左足から伝えてる回転運動を消して、即座に右足に移す……ぐわっ!?」
察したものの、タイミングがシビアすぎて失敗した。
両足から激しい回転運動が壁に伝わり、その反発がニックの体を襲う。自分の体内の回転運動に自分自身が弾き飛ばされる、そんな間抜けな羽目に陥り、ニックは真横へとすっ飛んだ。
「ぐっ……あっ、あぶねえ……!」
たまたま生えていた木の枝を無我夢中で掴んで、九死に一生を得た。
「軸足をほぼ同時に入れ替える……いや違うな。ゆっくりやるから失敗するんだ。リズミカルに小走りになった方が成功するな」
だがニックは自分で呟いて、背筋が寒くなった。
この断崖絶壁を、鼻歌でも歌うように小走りする?
「オレはヤモリでもトカゲでもねえんだぞクソっ……」
成功が目の前にある。
あるからこそニックは恐怖した。
十中八九死ぬという状況であれば、無我夢中であがく。
だが今は、死ぬ確率は相当に減った。
十分に壁歩きの方策が思いついた以上、死ぬ確率は5割程度といったところだろう。
ここまで来て死んだら、それこそ間抜けの死に様だ。
「…………もうひと踏ん張り、するか」
泣きたくなるような状況。
吐瀉し尽くして胃も体力も空っぽだ。
それでも、ニックは踏み出した。
ニックはこの時点で知らなかったが、これこそが奇門遁甲における応用技術であった。その場から一切動かずに体内で回転運動、そしてジャイロ効果を発生させ、あらゆる角度からの攻撃を回避ないしは防御を実現させる歩法。「天蓋歩法」である。
◆
そうして断崖絶壁から抜け出し、ニックは力を使い果たして大の字になっていた。
「ニック! おい、ニック! 生きておるのか!?」
半泣きのキズナがニックに駆け寄る。
それを、スイセンが追いかけてきた。
「ちょっとあなた……大丈夫なのね!?」
「死ぬところだったよ……お前らは……みんなは、どうだ?」
起き上がることなく、ニックが尋ねた。
「生きておる。が、状況は相当まずいぞ」
「戻らなきゃな……」
「無理をするな。指一本さえ動かせんじゃろ」
「うるせえ」
キズナの言葉にニックが反論する。
だが実際、キズナの言う通りであった。
言葉に力は無く、大の字に投げ出した手も足もぴくりとも動かない。
「それで状況は」
「カランが戦ってるわ。多分大丈夫」
「うむ。怪しげな剣術を使うが、ティアーナとカランがいれば問題なかろう」
スイセンの言葉に、ニックがホッと胸をなでおろす。
だが、キズナの表情が曇っている。
「うん? どうした?」
「……実は今、聖衣と同じ波動を感じた」
「聖衣って……え!? あ、ぐあっ」
ニックが驚いて体を起こそうとした。
だが体中に電撃のような痛みが走り、すぐに倒れる。
「無茶をするな馬鹿者!」
「聖衣って……白仮面のアレだよな? 生きてたのか?」
「同じ人間が着ているわけではあるまい。聖衣は太古の昔に作られたとは言えども、規格製品の量産品じゃ」
「じゃあ、ガロッソが着てるってことか?」
「恐らくそうじゃろう」
「なんでだよ!」
「知らぬわ!」
「あんな万年金欠野郎が買えるもんじゃねえはずだ……あがっ」
「ニック、無理するな……喋るだけでもつらいであろう」
キズナの声が、珍しく低い。
本気でニックを心配している様子だった。
「心配するな、大丈夫だ……それに、良いニュースもある。太陽騎士のアリスが加勢に行った。つーかあいつがオレを助けてくれた」
「一人の加勢でなんとかなると思うか? 白仮面と同じ聖衣が相手じゃぞ」
「わからねえよ……ともかく戻るぞ。肩、貸してくれ」
ニックがスイセンに頼んだ。
だがスイセンはニックの体を無言で引っ張り上げて担いだ。
「お、おい!」
「あんたは自分の力じゃ動けない。だから一応聞くわ。戻って良いのね?」
「は?」
「上へ行くか、それともここで下山するか。リタイアするなら最後のチャンスよ」
「ここでリタイアなんぞするわけねえだろ!」
「死ぬわよ」
スイセンは、静かに尋ねた。
脅しつけるような聞き方ではない。
淡々と事実を告げ、確認している。
「……そうだな。流石に今回は厳しい気がする。大ピンチだ」
「じゃあ」
「まあ、でも、戻るわ。あんたは帰ってくれ。ガキがいるんだろう。カランはこっちで連れて帰る」
ニックは、淡々と呟いた。
スイセンの顔が羞恥で赤くなる。
「そういうつもりで言ったんじゃないわよ!」
「オレだって意地悪で言ったわけじゃねえ。ただオレはパーティーのリーダーだ。戻る責任がある。あんたは違う。役目が違うだけだ」
「そんな体で何言ってんのよ……仕方ないわね」
スイセンが、諦めたように溜め息をついた。
そしてニックを優しく下ろす。
「うん? 行くんじゃないのか?」
「まともに歩けもしないのに行ってどうすんのよ。まずは作戦を練るべきでしょ」
そう言って、スイセンが懐からあるものを取り出した。
それは、青い宝石だ。
細いチェーンがつけられて首にぶら下げられるようになっているが、それ以外の装飾は一切ない。宝石そのものの美しさに比べて無骨と言っても良いほど全体のデザインはシンプルだ。
「これは……?」
「娘に渡すつもりだったものよ。名前は、竜王宝珠」
「竜王宝珠……?」
どことなく聞き覚えのある響きにニックが悩む。
答えはすぐに出た。
「……カランが盗まれたやつじゃねえか!」
「ああ、これはあの子が探してるものじゃないわ。それは義父様がカランのために力を込めたもの。こっちは、私が自分の子供のために魔力を込めてるものよ。竜王宝珠っていうのは特定の宝石を指すんじゃなくて、親から子へ渡すお守りよ。実際に魔力を込めて魔道具としても使えるんだけど」
「……魔力を込めて、魔道具として使える」
ニックがスイセンの言葉を確認するように繰り返した。
「それをこの場で出したってことは……使えって理解で良いのか?」
「……良くないし使って欲しくないけど、ここまできたら仕方ないってところね」
「どうやって使うものなんだ」
「呪文を呟いて飲み込みなさい」
「宝石を飲み込めって、おい」
「仕方ないでしょ。宝石に溜まった魔力が体に染み渡ったら消えるから腹は壊さないわ」
「そ、そうか……」
「とはいえ非常手段よ。なるべくなら使わずに済ませたい。体に負荷も掛かるから、怪我人のあなたが飲み込んだらどうなるかはわからないわ」
「わかった。ともかく……戻ろうぜ。残った連中が倒してる可能性だってあるんだ」
「だと良いけど」
そう言って、スイセンは再びニックを乱暴に担いだ。
「だからもっと優しく持て!」
「細かいわね。舌を噛むわよ!」
◆
だが、ニックの期待は当然の如く裏切られた。
戦場が見える距離に近づいてニックたちが目にしたのは、満身創痍のカランがアリスのサポートを受け、粘りに粘っている姿だった。ガロッソは余裕綽々の体でいたぶっている。このままでは遠からずカランが、そして全員が、死ぬ。
反射的に出ていこうとするスイセンを、キズナとニックが必死に止めた。
(落ち着くのじゃ……! 我らとて飛び込みたいのは一緒じゃ。だが無策で飛び込むなと言ったのはそなたじゃろう!)
(でも……!)
(落ち着いて様子を見ろ、ベロッキオが何か怪しげな準備をしておるぞ)
(え?)
距離を取り、気付かれないようにニックたちは会話する。
そしてキズナに促されてスイセンはベロッキオを見た。
(…………遠くてよくわからないのだけど)
(何かの呪いを唱えておる。心当たりは?)
(といっても、ここじゃ普通の魔術は使えな……あ)
スイセンがなにかに思い当たった。
(そうだ……ここに来る前に言っていたわ。ボスが倒された後にだけ使える裏技があるって)
(倒せそうか?)
(それはわからないわよ……でもベロッキオさんが考えなしにやるとは思えないし……)
スイセンが苛ついて歯ぎしりをした。
カランを見ていられないが、その行動が返って危機を招くこともわかっている。
(ならば我らはそのタイミングで乗っかろう。一瞬で逆転するしかあるまい。あやつは「遊んで」おる。このまま無策で打って出たらかえって本気にさせて全滅じゃ。ところでスイセンよ)
(なによ)
(その竜王宝珠は、竜人族の魔力を他人に分け与える……ということで良いのじゃな?)
(ええ、そうよ)
(共有の概念を持つ魔導具ならば、我とは相性が良い。使わせてもらうぞ)
キズナがスイセンの手からひょいと宝石を奪った。
そして、何の遠慮も無くごくりと飲み込んだ。
(な、何すんのよ……!?)
(あ、お、おま……ばっ、バカか!?)
ニックとスイセンの射殺すような視線を、キズナは静かに受け止めた。
(良いか。よく聞け。宝珠を飲み込んだことによってスイセンの魔力が我の体に馴染んでおる。それがどういうことかわかるか?)
(わからねえよお前が奇行に走った理由なんざ)
(ほんの少しの時間であれば、スイセンとニックが《合体》できる)
(……なんだと?)
(ベロッキオが何か仕掛けると同時に、我らも《合体》によって必殺の一撃を放つ。これしかあるまい)
その説明に、ニックの目に希望が灯る。
だが、ややあって小さく首を横に振った。
(いや……《合体》するにしたって、ならし運転くらいしてただろう。いきなり全力を出せるかよ……。だいたい、ほんの少しの時間ってどれくらいあるんだよ)
(五秒くらいかの)
(ごっ……五秒って、おい……)
ニックが暗澹とした表情で呟く。
そして、スイセンをちらりと見た。
(《合体》っていうのは、あなたとカランが合体したアレね?)
(そうだ。ただ、《合体》した後、どういう姿になるか未知数だ。何ができて、何ができないかもわからん)
(だったらやることを決めておけば良いじゃないの。そもそもできることは限られるでしょう。一足飛びに飛び込んで斬り付けるか、あるいは……)
その次に出てくる言葉を、キズナが予想して答えた。
(狙撃。それしかあるまい)
キズナの言葉に、スイセンとニックがごくりと唾を飲み込む。
五秒のチャンスをぶっつけ本番で実現させろという要求だ。
(スイセンさんよ。あの投槍で行こう。《合体》したときにあの投槍を使うって二人共同じことを考えていれば、多分それに適した姿になる)
(本当?)
(…………多分な。だが、やってみる価値はある。つーか)
ニックは、激闘を重ねるカランを見る。
スイセンもつられて視線を戦場に送り、悔しそうに歯がみした。
(これしかねえ)