白仮面再び 1
「ひでえ目にあった……」
「それはこっちのセリフだよ!」
げっそりとした顔のニックにアリスが怒鳴りつけた。
「す、すまん、悪気はなかったんだ。それと……本当に感謝してる。女神か天使にでもあった気分だ」
「えっ、そ、そう?」
ニックの命は間一髪で助かり、出てきた言葉は比喩ではなく本音だった。別に美しさを褒め称えるためのおべんちゃらではなく純粋に感謝の言葉だとわかるだろうに、アリスは妙に照れている。
こいつ駄目な男に騙されそうなタイプだなとニックはこっそり思った。
「それより一体どうして……って、まあ聞くまでもないか。ガロッソが目当てか?」
「そうだよ」
アリスが頷く。
「……正面からやりあったのに、背中を斬られた。恐らくそういう剣技なんだ」
「暗殺者らしい技だ」
「反論できねえな……」
以前ニックがアリスに聞いた話とほぼ符合する。
アリスの同僚の騎士が背中から惨殺された手口は、ガロッソならば確実に可能だ。
もはやニックもガロッソを庇おうという気もなくなっていた。
「武芸百般の技かい?」
アリスはさっきまで照れてうろたえておきながら、ひどく怜悧な視線をニックに送る。
「わからねえ。俺は初見だが、俺も武芸百般の全部を知ってるわけじゃない。つーかなんであいつらが俺たちを襲ったのかもわからん」
「まあ、そこは後でゆっくり聞くとしようか。それじゃ、私はそろそろ行くよ。あ、マント持っておいて。洗って返してね?」
アリスがウインクして立ち上がった。
そして、岩場から壁へと足をかけた。
まるで重力が90度回転したかのように、壁に垂直に立っている。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺も連れてってくれ」
「……やだ」
アリスは悩んだ素振りを見せ、だがにこやかな笑みと共にニックを拒否した。
「え?」
「現状ではそこが一番安全だよ。後で拾ってあげるから」
「嘘だろ?」
だが、アリスは微笑んだままだ。
冗談ではなく本気だとニックが悟った。
「ここから出たい?」
「当たり前だろ! この状況でじっとしてられるか!」
「だったら私に甘えないで、自分で出なよ。さっきみたいにあがいてる子は好きだけど、甘えん坊は嫌いだなぁ」
「さっきみたいに……」
そのとき、ニックの脳にひらめきが降り立った。
自分はどうやって落下中に助かったのか?
ぎりぎりのところでアリスが助けてくれたにしても、あと一歩のところまでは来ていたはずだ。
まるで、壁に吸い付くような動きをしていた。
「アリス、一つヒントをくれ」
「なに?」
「お前が壁を走ったのも、魔導具とか特異な体質とかじゃない。テクニックで何とかなるものなんだな?」
「ヒントをくれって言いながら大体の見当がついてるじゃないか」
アリスがくっくと笑う。
それは皮肉げな笑いではなく、賛辞の気配があった。
「そうだな」
「じゃ、頑張ってね……期待してるよ?」
アリスは手を振りながら壁を歩く。
まるでニックに見せつけるように一歩一歩、上へと進んでいった。
「……よし」
ニックは再び呼吸を整える。
体の節々は痛む。
擦り傷だらけだ。
無茶な態勢をしたせいで、左腕の肘と右足首がずきずきと痛む。
もう一度ゲロを吐かないと頭がすっきりしないかもしれない。
だが、それでもまだ手も足も動く。
ニックは自分の頬を叩き、いけるはずだと気合を入れた。
「さっきは……そうだ。体の重心をずらしたんだったな」
ニックは、無我夢中だった自分の行動を振り返る。
その時使っていたのが《軽身》と《重身》だ。これを同時に発動させた。
自分の体の軸をずらし、空中で回転しながら落下する自分の姿勢を制御した。
「……いや、違う。回転を抑えたんじゃねえ。逆方向に回転させたんだ」
このとき、様々なものがニックの頭の中で結びついた。
壁を歩いていたアリス。
そして、オリヴィアも似たようなことをしていた。
いや、オリヴィアは壁を歩いただけではない。
壁を歩きながらニックの額を撫でた。
ニックはその瞬間、弾き飛ばされていた。
あたかも、高速回転しながらもその場を動いていない駒に触れてしまったかのように、ニックは強い衝撃を受けた。
「《重身》《軽身》」
自分の体の中で、一切体を動かさずに回転運動のみを発生させる。
まるで自分自身が独楽になったようなものだ。
「うおっ、危ねっ!?」
そしてすぐにバランスを崩した。
いきなり速度を上げすぎてその場から転びそうになる。
あと一歩踏み違えていれば、再び崖から真っ逆さまに落ちてしまう。
そんな状況にありながら、ニックは口元ににやついた笑みを浮かべている。
「そうかそうか、そういうことか……。こんな面倒くせえ技ならちゃんと説明しろよ」
そしてニックは再び呼吸を整え、魔術を唱え始めた。
◆
カランに弾き飛ばされたガロッソは、倒れたままぶつぶつと話を始めた。
「……俺の祖父さんの祖父さんの、そのまた祖父さんくらいはけっこう身分が高いやつでな。国を守るサムライだかなんだか、そういう立場だったらしい」
「知らン」
敗北を悟ったガロッソが意味のわからないことを呟いて煙に巻き、窮地を脱しようとしている。カランはそう判断して、一切油断せずに再び構えた。
ガロッソは鍔迫り合いに完全に押し負け、そして手にしたカタナもへし折った。
誰がどう見てもカランの勝利だ。
それでもカランは何か嫌な予感を拭えずに居た。
「だからもし俺の家とか、俺の祖先の居た国がまだあったなら、俺はただのガロッソじゃなくてガロッソ=カタオカだったんだよ。家名持ちだ、すげえだろ?」
そう言いながらガロッソが自分の上着を脱いだ。
その瞬間、カランに猛烈な嫌な予感が背筋に走った。
未知の恐怖、ではない。
すでに知っているものだ。
『それ』に殺されそうになり、九死に一生を得た経験は忘れられない。
「しゃらッ!」
カランが、袈裟懸けにガロッソを斬ろうとした。
「遅かったな。いや、遅いのは俺か? こうなる前に身に纏っておきゃ良かった」
いつの間にかガロッソの腕が、黒い篭手に覆われていた。
そして脱いだ上着の下、心臓と腹の間のあたりに真っ白い宝玉が輝いている。
「これは……白仮面の……!」
「そうだ。俺が次の『白仮面』だ。国が倒れちまいそうになってご先祖様は魔神側の大物と契約したんだ。『力を与えてくれるならば、子孫七代まで魔神崇拝者として忠誠を尽くす』ってな。俺が最後の七代目だ。それがイヤでイヤで、ヤクザ者みてえな暮らしをしてたんだが……いや、それは良いか。雑談が長いってよく怒られてるんだよ」
喋っている間にも、黒い鎧がガロッソの体を覆っていく。
「これを装着したら俺は完全に死ぬまで奴隷だ。つーか自分の意志で死ぬこともできねえ。はぁ……もうちょっと遊びたかったぜ」
どこからともなく、剣が現れた。
顔がつややかで真っ白い兜に覆われる。
「またこいつとやるってわけ……冗談も休み休み言いなさいよ……!」
ティアーナの言葉は、ここにいる【サバイバー】全員の心を代弁していた。
ガロッソは今、以前出会った白仮面とまったく同じ姿をしていた。
「同情するぜ、お前らには」
「だったら辞めときゃ良いでしょうが!」
皮肉げなガロッソにティアーナが猛然と反論する。
「悪いな。話し合いで何とかなる状況じゃあねえんだよ」
「そこは同意だね。会話で煙に巻かれちゃ駄目だよ」
「なにッ!?」
「胡蝶剣、揚羽の太刀」
そのとき、どこからともなく現れた女剣士が一撃を放った。
曲線的で優美な動きは、カランさえも一瞬見惚れてしまうほど洗練されたものだ。
「あっ……アリス!?」
「聖衣持ちかぁ……あー、もう、ニックくん連れて逃げれば良かった」
太陽騎士アリスが、皮肉げな笑みを浮かべた。
直撃を受けたガロッソの体……肩から腹にかけて、深々とした刀傷が生まれていた。
だがその傷もしゅうしゅうと煙を立ててふさがっていき、その上に黒い鎧が生き物のように覆っていく。
「太陽騎士のおでましか。こいつはやべーな」
面白がるようなガロッソの声。
脅威などびたいち感じている様子はない。
「多分、部下も来てるんだろ? けどお前の足には追いつけてない……ってところか。じゃ、さっさとやらねえとな」
アリスはガロッソの冗談交じりの声には答えず、静かに剣を構えた。
冷や汗がアリスの頬をつたう。
◆
何もできない。
ティアーナは歯噛みした。
魔導弓を撃とうとしても意味がない。狙い、撃つという2ステップの動作をした時点でこちらがやられる。それどころか人質に取られて足を引っ張ってしまうことさえありうる。ティアーナの計算は正しく、それゆえに身動きが取れなかった。
「ゼム……師匠は、大丈夫?」
「やれるだけのことはやりました。後は……」
囁くようにゼムに呟く。
だがゼムは、イエスともノーとも言わない、曖昧な答えを返した。
つまりはこの状況を脱しない限りどうにもできないのだ。
冷酷な現実を吹き飛ばすべく、目の前の敵に突撃してしまいたい。
あるいは放り投げて逃げてしまいたい。
甘美な誘惑をティアーナは頭から振り払う。
考えろ、考えろ。
それ以外、自分に何ができるというのか。
「ティ……ティアーナさん……」
「しっ……」
大声が出そうになるのを、ティアーナはぐっと堪えた。
ガロッソに気取られないよう、静かにティアーナはベロッキオに寄り添う。
「師匠、喋っては……」
「ボスが死んで、ほんの少しの間だけ結界が弛んでいます」
「え?」
「迷宮は……再びボスを蘇らせるため、一時的に弱体化します。ほんの少しの間だけですが、今ならば……」
途切れ途切れの言葉を、ティアーナは聞き漏らすまいと全神経を集中した。
「ほんの一瞬、一瞬で良いんです……聖衣を止めることは……できます」