バーティカルリミット
カランたちがガロッソと戦っている瞬間。
「うわああああーっ!?」
ガロッソに蹴り落とされて山を落下していた。
反射的に右手を伸ばしたが、岩壁には後少しで届かなかった。
ニックが蹴られた先は、70度以上の傾斜だった。仮にここを登るとしたらクサビを岩壁に打ち込みロープを引っ掛けなければ不可能な場所だ。
救いがあるとすれば、もう少し下へと落下すれば山肌の傾斜にぶつかることだ。一気に千メートル近い地上にぶつかり即死する……ということはない。ここがもし垂直以上の角度のオーバーハングであったなら、ニックの体は完全に空に投げ出されていた。
だが途中の傾斜に衝突する場合でも、その時点で致命的な落下速度を生んでいる。その衝撃は間違いなく臓器と骨を破壊するだろう。そして再び落下し、二度目、三度目の落下で確実な死が訪れる。万に一つの幸運を掴んで助かったとしても決して五体満足では済まない。
ニックはそれをまざまざと予測し、死を覚悟した。
当然、できるわけがなかった。
元仲間に裏切られ、突き落とされ、潰された虫のように死ぬなど冗談じゃない。
だがそれでも運命は非情だ。
臓腑が上に持ち上がる感覚。
気圧差に痛む耳。
消えゆく上下左右の感覚。
眼下に迫りくる鋭利な岩壁。
10秒後に確実に起きるであろう、自分の死。
「じょっ……冗談じゃねえッ……!」
身を捻った。
全神経を集中して腕を伸ばし、《軽身》を使いつつ岩壁にナイフを引っ掛けた。
「よっ、よしっ……! よし!」
ナイフは丁度柔らかい斜面に突き刺さり、突き刺さったまま下へずるずると下がった。
手を伸ばした先は偶然にも柔らかい土の部分であり、それがニックを救った。加えて、《軽身》を使って重量が軽くなったために、自分の重さが仇になって腕が千切れたり骨折するということはなかった。すぐに停止するということはなかったが、うまくブレーキのような効果を発揮して落下速度が緩んでいく。
ニックは命が助かったという多幸感に包まれ、だがすぐに裏切られた。
硬い岩盤に当たってナイフが折れ、ニックの体が再び宙に投げ出された。
「げえっ!?」
落下速度は大きく減ったが、予期せぬ不幸が現れた。
ニックの体が駒のように回転した。
まるで地面にバウンドしたボールのような状況に陥っている。
(くそっ……どうすりゃ良い……? どうすれば……)
ニックの視界が霞む。
そもそも体のコントロールが効かない。
体を軽くしたがゆえに回転している。
だったら重くすれば良いのか?
だがそれも悪手だ、とニックは感覚で理解した。
重量を大きくすれば、地面に叩きつけられたときの衝撃が大きくなる。最初に比べて落下速度が大きく減った状態だ。そのメリットを失う選択は取れない。偶然に身を任せて、《軽身》を維持したまま地面に叩きつけられた方が、まだ生き残る芽はあるかもしれない。
ニックは判断を迫られた。
「回転を……回転を止めねえと……」
ただ身をよじる程度ならできる。
だが足場のない状態で自分の肉体にかかったスピンを止めるのは不可能だ。
少しずつニックの視界が暗くなっていく。
遠心力が血流と三半規管に大きなダメージを与えている。
失神が近い。
「動け……体が動かないなら……魔力で……」
ニックの行動は、ほぼ動物的な勘と言っても良かった。
体を軽くする【軽身】と、体を重くする【重身】の魔術を同時に使用する。
肉体の重心をズラした。
そして重心を、回転させた。
今現在ニックの体にかかってる回転運動と真逆の方向へと激しく動かす。
「ぐっ……!」
体が引き裂かれそうになるような衝撃に耐えつつ、ニックは空中で、自分の肉体の回転を止めた。自分の姿勢を完全に制御した。自由落下そのものは当然止められないが、それでも自分の体の向きや手足は自在に動かせる状態を手に入れた。
そして、岩壁を蹴った。
「うっ……うおおおおっ!」
岩壁の取っ掛かりを蹴り、さらに上にある取っ掛かりを蹴る。
断崖絶壁を起用に登る鹿のように、ニックは軽やかに飛び跳ねた。
「なんだこりゃ……なんでこんなに安定するんだ……?」
バランスを崩して落下してもおかしくないような、無茶な動きをしている。
だがニックは、深いことを考えるのを止めた。
そんな余裕はない。
本能に身を任せて壁を蹴る。
あと十回以上とっかかりを蹴って飛び跳ねれば緩やかな斜面に辿り着く。
だがここで一瞬でもためらってしまえば死が待ち受けている。
次の取っ掛かりへ跳ぶための飛距離を稼げなくなり、やがて落下するしかない。
あるいは、脆い場所を踏み抜いてしまえばそれもまた死だ。
ニックの命が風前の灯火である状態は変わっていない。
「よしっ……」
五回、六回と重ねて成功する。
もう少しで地上だ。
救われるという確信こそが命取りだった。
脆い取っ掛かりを踏み抜き、ニックの体が再び落下していく。
もう一度どこかを蹴るしかない、と思ったあたりで最悪の事態が訪れた。
連鎖的に岩が崩れ始めた。
「あっ……」
今度こそ駄目だ。
死を目前にして出したニックの力は、本来の実力以上のものだった。
しかも《合体》によって大きく消耗している状態でのことだ。
完全にニックの気力体力は失われた。
諦めをエネルギーにしてニックの体は落下していく。
「……まあ、よくやったよな。あがいた方だろ」
「いいや、まだまだだよ?」
涼やかな声がニックの耳に届いた。
そして凄まじい力で真横に自分の体が持っていかれた。
「なっ……ああっ……!?」
ニックの体は今、女性に抱きかかえられていた。
そして女性は壁に垂直に立ち、猛スピードで真横に走っている。
「よし、と。あー焦った。大丈夫? 怪我はない?」
そして、腰を落ち着けられる程度の大きくしっかりした岩場で女性は立ち止まった。
ニックを優しい手付きで下ろす。
「お、お前は……アリスか」
ニックを救ったのは青い短髪の、凛とした美人だ。
太陽騎士団の部隊を率いる隊長の一人であり、「白仮面」の件で探りを入れてきた騎士、アリスだった。
「間一髪だったね。感謝してくれよ?」
「お、おう……」
ニックは、気の利いた言葉も出ず、頷いてアリスを見つめた。
「こらこら、大人の女性の顔をまじまじと見るもんじゃない、と言っただろう」
アリスが苦笑まじりに言葉を返す。
だがニックは、何も言わずにアリスを見つめ続けている。
その真剣な眼差しにアリスは思わず顔を赤らめた。
「お、おっと、本当に見惚れちゃったかな?」
「す……」
「す?」
「すまん……アリス……げ、限界だ」
「え? もしかして本気?」
「おえっ」
緊張の糸が解けた瞬間、ニックは今まで自分の肉体に掛かっていた負荷すべてを自覚した。猛烈な疲労。筋肉と関節の痛み。全身に負った細かい傷。そして激しくシェイクされた脳と三半規管。
その結果。
盛大に嘔吐した。
「うきゃーっ!? ちょ、狭いんだからここで吐かないでよ!? あっ、やだっ、マントがーっ!?」