第一章6 至福の乳房1
ユウキが初めに感じたのは困惑だった。
女神に抱き着いたことをきっかけに、丈夫な女の子の体を手に入れた。ただでさえ女の子の体だと言われたときに困惑したというのに、いざ生まれ変わってみれば、自分の体を確認することができなかった。
五十㎝程度しかない体。三㎏程度しかない体重。
ユウキが生まれたばかりの赤子だと気がつくのに時間を要した。
目は見えない。
音は聞こえても言葉は分からない。
体を動かしたくても、力が抜けたかのように動かない。
出生は一人の人間が生きていく始まりという祝福されるべき瞬間だが、ユウキにとってみればとても厳しい試練ともいえた。
「おぎゃああああああああああ(ディーネたああああああああああんんん!)」
「はいはい、今行きますよ」
ユウキの鳴き声を上げれば。エプロン姿のソフィアがやって来る。
ソフィアがニコニコと笑って話しかけても、ユウキにはソフィアが何を言っているにか分からない。
ユウキはウェンディに泣きつきたくても、既に優希はユウキとして新しい人生を歩み始めていた。ユウキがディーネたんと叫ぶ女神はユウキの元には現れない。
ユウキが女神の名前を叫んでいるつもりでも、ユウキの口からは声にならならない叫びとなって音が出る。
「おぎゃああああああああああああああああああああ(ディーネたあああああん!赤子からはなんというハードモードっ……鬼畜過ぎてそこにしびれる憧れるぅううううう!………ってそんなわけあるかあああああ!これから僕どうなるのっ!?ねえ?どうなるの?)」
「オムツの交換ではないわね。ミルクが欲しいのかしら?おお、よしよし。お母さんですよお」
ソフィアはユウキを優しく抱きかかえる。
ユウキはソフィアに身を任せるしかない。
前世では三十代魔法使いの成人男性だったユウキが、大人の時の感覚があるまま赤子に転生。
じっとしていれば突然の浮遊感と温かい温もり。
自分の心臓でないドクドクとした音。
よくわからないものに触れられて、少し離れ、また触れられて。
自身の力では何もできない中、いくつもの刺激が訪れる状況に、ユウキは耐え難い不安に襲われていた。
もし慣れ親しんでいる自分の体だったら少しは変わったかもしれなかったが、初めて動かした体を自分の体だと認識するのにも困難を極める。
「…………………………(だって、ありきたりな剣と魔法の世界の魔王に生まれるなら、もっとこう……大人の姿からスタートだと思うでしょう?)」
「あらあら、どうしましょう。じっとして動かないわ……にらめっこかしら?いいわ。受けて立つわ。無双姫ソフィアとは私のことよ!」
ユウキは魔王ライフを楽しむことはおろか、生きているのかも怪しい。
赤子は、筋力や感覚などの身体能力すら乏しく無力に等しい。剣と魔法のファンタジー世界で生きていくためには、一人の力では生きていけない。
「…………………………(大人の力があれば、自分のできることを確認して、交渉することも出来たのに、一どころか、何もできない状況からのスタートは、本当に鬼畜するぎるよっ……)」
「……………くっ……つ、強い。やるわね。一対一でこの私を動揺させるのはリュウゼン以来だわ……………」
空腹になっても自分で食事をすることができない。
寒くても熱くても自分では何もできない。
触れられたのが痛くても、自分で振りほどくことができない。
「…………………………(考えるのも疲れるよディーネたん。僕はもう……)」
ユウキは、達観した気持ちで、初心を貫くことにした。
「…………………………(魔王ライフを楽しむしかないよね!)」
「何?疲れた顔しているの?私が疲れているのかしら?あら。笑ったわ!ふふっ、この勝負、私の勝ちね!」
ユウキが耐えがたい不安に襲われていたのは、今や昔。
ユウキはソフィアが与える温もりによって、この人は安全だという安心感に変わっていた。
不安であったことが不安でなくなれば、ユウキを押さえるものは脆い理性しか残らない。ユウキの欲望を押さえるものは実質なかった。
前世の頃から人一倍強かった欲望。
睡眠欲。食欲。性欲。
人の三大欲求といわれ、人の行動の源となる力。
ユウキは、現在満たすことのできる睡眠欲と食欲をむさぼり、間接的に性欲を満たしていた。
「おぎゃあああああ(お腹がすいたああああああ!おっぱいちょうだい、おっぱい!)」
「あらあら、我慢していたのかしら?そんなに頭を押し付けなくても、おっぱいは逃げないわよ?」
ユウキは、体から伝わる食事したいという欲求と、乳房を撫で撫でしたいという欲求が重なりあい、前世ではできなかった女性の体を堪能する。
赤子という、とても眠くなりやすい体。
起きている時に体を動かせる範囲で動かし、寝ている間に体を動かした記憶を入力していく幼い体。
ユウキは、ソフィアの名前を知らないし、誰であるのか分からない。しかし、ありきたりな剣と魔法の世界で、この女性が自分を守ってくれる存在だと本能で感じとっていた。
自分が要求すれば、来てくれる存在。
母親と子供の間に構築される相互的関係。
ユウキが首の座っていない体を擦りつければ、ソフィアはユウキを優しく抱きかかえる。
ユウキがソフィアの顔をじっと見れば、ソフィアはユウキの顔をつい見つめ返してしまう。
ユウキが泣けば、ソフィアはあやす。
ユウキがソフィアの体の温かさを感じるように、ソフィアもユウキの体に温かさを感じとっていた。
「ぶあああああ(うひょおおおおお!いい匂いがするんだな。あ、頬に何かあたった。うひょひょおお!これだよこれ!白くて甘い栄養分を射出してくれる乳頭でっせ……はむはむ……おおおお!うめえええええ!)」
「おいしょっ。三十分に一回は食事が必要って、ユウキは食欲旺盛なのかしら?ノークスさんは普通の子は二時間に一回ぐらいの頻度って言ってたし、本にもそうかいてあるのに……お父さんはどう思う?」
「いや、経った今帰ってきたから状況が分からないんだが?」
……………
…………………………
(ふう、お腹いっぱいだぜ。土式トレーニングの続きをして、もう一眠りしましょ)
ユウキは魔王の力によって、口からエネルギーの源を吸引した。
赤子の中には、吸引して嚥下する力もない子も多いけれど、ユウキはそんなの関係ないと言わんばかりに力強く吸い尽くす。
ソフィアが与えてくれる唯一の食べ物。
食欲と性欲が満たされる至福の時。
身体を思うように動かせない状況の中で、欲求を満たすことは唯一の楽しみといっても過言ではない。
赤子の舌では味が分からなくても、ユウキの体には満たされた気持ちが充満する。
人類の基本的欲求であり、生きていくうえで絶対に必要なエネルギーを取り入れる行為は、魔王でも変わりない。
ただ、赤ちゃんの食事方法は、赤ちゃんだから、許される。
三十歳のおっさんが、五十歳母親にしていると考えるだけで、事案が発生する出来事。
ユウキの変態的行動は、大人と仮定して想像すると不快な気持ちになる出来事であったが、乳児と母親が構築する関係であった。
「そういえば、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
ソフィアは、着崩していた服を元に戻した。
ユウキは魔王であっても、ソフィアにとっては我が娘。
ユウキの目が覚めているときは、目と身体をじっと見る((うひょおおお!可愛いぜ!))。
匂いを嗅ぐ((ぐほー!いい匂いがするううう))。
体をこすりつける((ぐひひっ!柔らかい))。
無力で生まれたユウキは、ソフィアに母親としての使命を与え、ソフィアはユウキの可愛い仕草にメロメロになってしまう。仕草だけでも可愛いというのに、ユウキは与えたものを不安なく取り入れていくため、ユウキはソフィアの母性本能をくすぐっていた。
「リュウゼン。私は娘に汚されてしまったの。でもどうしてもというなら、もう一度あなた色に染めてほしいわ」
「いや、ただユウキにご飯を与えただけだろう?大げさだ……ふべらっ」
父親のリュウゼンには理解できても理解しにくい一種の関係。
ソフィアは、一日中泣き続けるユウキを投げ捨てようかと思っていた時もあったが、可愛い娘だと抱きかかえる。
「分かっていないわね。三十分に一度ご飯を与えているのは私ですよ?夜中も与えているというのに、あなたはユウキの泣き声に気がつかないで寝ているではありませんか」
「……ユウキ、最近母さんが冷たいんだ」
リュウゼンがユウキに嫉妬しても、リュウゼンはユウキになれない。
たとえリュウゼンがソフィアと特別な関係であったとしても、ソフィアとユウキの関係と同じものを築くことは難しい。
ソフィアが無力のユウキに与えるのは、母親として子を育てる使命感。
無力のユウキがソフィアに与えるのは、新たな母親と言う役割。
リュウゼンはユウキにはなれなくても、リュウゼンとソフィアの間にユウキが加わっても。
ソフィアとリュウゼンの関係は変わらない。
「リュウゼン、あなたははっきり言わないと伝わらないのかしら?」
ソフィアは魔法で殴り飛ばしたリュウゼンの上に跨った。
リュウゼンは顔を青くさせ、ガクガクと震えはじめる。
「おおおおおおおおおおいいいいいいいいいい!!!ユウキがいるところでは教育に悪いからな!落ち着こう!よおおおおおし!落ち着こうな!」
「私は落ち着いているわ。育児も家事も手伝わない誰かさんのせいで、至って落ち着いているの」
リュウゼンは一人の男で、ソフィアは一人の女。
子育てを始めた一組の夫婦であっても、リュウゼンもソフィアも一人の人間。
夜泣きで何度も起き、しっかりと睡眠を確保できないソフィアは、リュウゼンを倒した時のように、挑発的な笑みを浮かべた。
「ねえ。あなた?いくら国からの使命を託されているといっても、私の変えはいないのよ?」
「あ、ああ」
リュウゼンは、仕事による肉体的疲れに鞭を打つようにして、ソフィアを抱きしめた。
「村の人達に預け……たくてもできないか」
「ええ。触れられて鑑定されてしまったら、ユウキの」
「最後まで言わなくても分かっている」
ユウキの職業が魔王だと判明してしまうリスクが高まってしまう。
ソフィアは、リュウゼンに頭を撫で荒れたことで、言葉を飲み込んだ。
「ソフィアは、十分頑張っているからな。体を壊してしまったら、元も子もないから、適度に休んでほしい」
「ええ」
リュウゼンの顔とソフィアの顔が近づくと、二人の唇が重なり合――
「あうあああああ!(動け!僕の魔力!!うおおおおおおおおおお!)
うことなく、二人は慌てってユウキに駆け寄った。
ユウキの体から、魔力が解放されているのを感じとれる。
「い!今のは、魔力解放か???」
「赤子のときから魔力漏れがある子もいるらしいわ。でもこのままだと、魔力が枯渇してしまうの!私の魔力だと濃すぎるし、あなたの魔力だとユウキと相性が悪いのよ。ああああああ!!!魔力欠乏による筋肉弛緩が起き始めてる!?大丈夫。いつものことだから。大丈夫よ」
ソフィアは、慌てているリュウゼンを落ち着かせるために、いつものことだと平常心を偽った。ソフィアの手は、寝ているユウキの体に当てられる。
「濃すぎる魔力をユウキと同等程度の濃度にして、ユウキの体から魔力が枯渇しないように、魔力を浸透させていくの。ユウキの食後にいつも起こるのよ?あなたは知っていた?」
「すまん」
リュウゼンは、ユウキに起きていることを知らないことに知り、ソフィアに負担をかけていたことを自覚した。
ユウキが土の女神に教わったトレーニングを自主的に行っていることを知らない二人は、赤子の時の死因である魔力循環不全が起きないように魔力をゆっくりと循環させる。
「おおおおおお!(うひょおおおおおお!幻想と思われていた魔力が手に取るように分かるぞおおおおお!ディーネたんが言っていたことが今なら分かる!魔力があっても扱えないなんてことはない!魔力の可能性は無限大!僕がディーネたんに使いたいと考えたエロ魔法!スカートめ……く…………)」
ソフィアの足元からそよ風が吹く。
ユウキは魔力が枯渇して、意識を失った。身体と頭は問題ない。頭のネジが数百本は抜け落ち、変態的な考え方をしていても、問題はない。
ユウキは、寝息を立ててすやすやと眠っている。
「寝てしまったな。いつもこうなのか?」
「ええ。でも問題ないそうよ。さ、今のうちに私たちもご飯にしましょう」
ソフィアは、すっかり寝てしまったユウキの額から汗を拭きとると、夕食のスープを温め直した。






