其之一 -バッシング-
「高橋のせいで連敗や! 甘い球打たんかいアホ!!」
「もう六月やで! いい加減調子あげや!!」
「謝罪しにこんか、十六億!!」
甲子園ライトスタンドに陣取った大阪ジャガーズファンが、ベンチにまで届く罵声を投げかけている。その対象である高橋典孝には、言葉の内容をはっきりと聞き取れなかったが、大体の予想は付いていた。
意図的にスタンドから視線を外し、ジャガーズの選手達とベンチを後にする。
今日で五試合ノーヒットに終わり、打率はとうとう一割台にまで落ち込んでしまった。
四年間で十六億という高額年俸に見合う数字ではないのは、高橋自身がよく分かっている。
だが、それでも彼の足取りはしっかりとしていた。
「お疲れ様です、高橋さん」
ロッカールームに戻ると、隣の若い投手が声を掛けてきた。投打の違いはあれど、なにかにつけて高橋に心構えを請いたがる、かわいい後輩だった。
「おお、お疲れ」
「高橋さん、俺、今日も失点しましたよ……。次も打たれたら、二軍落ちかもしれません」
「あれは相手が良すぎたよ。次に切り替えろ」
「でも、チームは五位転落ですし、俺も責任感じます。
結婚したばかりで、家族だって守らなきゃいけないのに、
一軍定着できなかったら、オフには契約が……」
「そう言うなよ。五試合打ててない俺の立つ瀬がないぞ」
「あ、高橋さんはしょうがないです! まだリーグの違いに慣れてないだけですよ」
後輩は気遣いの言葉を掛けてくれたが、自分の言うとおりだ、と高橋は思う。
プロ野球界では、長年活躍した者は、他球団と自由に交渉できる権利を取得する。
それを行使して福岡コンドルズからジャガーズに移籍してきた高橋への期待は大きい。その上、四年は契約を保証され、年俸も高額固定なのだから、活躍は義務といっても過言ではない。
「ジャガーズファンのヤジこそが現実だよ。面目ない」
「大丈夫ですよ。高橋さんこそ切り替えましょうよ」
「いや、このままじゃ二軍落ちも近いと思っている」
「そんな……」
自身の立ち位置を露骨に口にする選手は少ない。他のチームメイトも話の行方が気になったようで、一瞬、ロッカールームに静けさが宿る。
が……次の瞬間、高橋はオーバーリアクションで握り拳を作ってみせた。
「そんなわけで、来週の福岡遠征では監督と中洲に行ってくる!
思いっきり媚売っておかなきゃなっ!」
そう言って、してやったりの笑みを浮かべた。
二軍落ちの話は、冗談の前振り。
それを理解した選手達は釣られて笑い、緊迫した空気は一気にほぐれた。
これでいい。チームが落ち目の時は、雰囲気だけでも上げなくてはいけない。
高橋が満足げに皆を眺めていると、不意に小柄な男が肩を叩いてきた。
チームのマネージャーだった。
「高橋君、ちょっと」
「あ……はい。マネージャーさん、なんでしょう?」
「監督が呼んでるよ。監督室で話がしたいって」
「……本当に二軍落ちですかね」
「そうとは聞いてないよ。でも深刻な表情だったね」
「分かりました。わざわざありがとうございます」
礼を述べ、ロッカールームを抜け出して監督室に向かい、扉を叩く。
ジャガーズの監督は島田という男で、今年四十五歳になる。現役時代からジャガーズ一筋の男で、高橋と島田が共にグラウンドに立った事はない。だが、同じ大学出身という接点があった為、高橋がコンドルズにいる頃から、島田は何かと目にかけてくれた。
「高橋か。入れ」
「失礼します」
中に入ると、本革のソファに深々と体を預けている島田が視界に入る。
最近の彼は腹が出たようだ。中には監督としての心労が詰まっているのだろう。
向かいのソファを指差されたので腰掛けると、島田は体を乗り出して、早速話を始めた。
「ロッカー、景気がいいみたいだな。ここまで笑い声が聞こえてきてたぞ」
「耳障りでしたらすみません」
「アホ。褒めてるんだ。お前のお陰で、チームは崩壊せずに済んでいるからな」
「これを結果に繋げないといけませんね。明日こそは打ってみせます」
「ただ、辛い時は申し出ろ。お前はもうちょっと、自分の事を考えた方がいい」
「と、言いますと?」
「トレーナーから聞いているぞ。腰、相当しんどいらしいな」
なるほど、彼の面倒見の良さは、監督になっても変わらない。
高橋はつい口の端を緩めたが、島田は逆に表情を険しくして話を続けた。
「お前の腰痛は高校時代からだったな。
付き合い方は心得ているだろうが、いい加減もう限界なんだろう?」
「正直に言えば、ちょっと辛いですね。
使い物にならないと判断した時は、遠慮なく二軍に落として下さい」
「……本当は休ませてやりたいが、使い続けなくちゃならん。詳しくは言えないが……球団社長も、その、なんだ。お前に期待しているみたいだしな」
大金を費やしたから働いてもらわないと困る、と社長は言いたいのだろう。
実際、給料泥棒になりかけているのだから、高橋は素直に頷いた。
「分かりました。やれるだけ、やります」
「すまんな。でも、いざという時は、社長がなんと言おうが休ませてやる」
「お気遣い感謝します。……いつもご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「お前、同じユニフォームを着るようになってから、水臭くなったよなあ……。
俺は体以外も心配してるんだぞ?」
「と、言いますと?」
「メンタルだよ。親父さんの件だ」
島田は何もかもお見通しのようだった。
ようやく高橋も、口をきつく結んで真剣な表情を浮かべる。
それを待っていたかのように、島田は口を開いた。
「……まだ見つからないんだってな」
「ええ。多分もう、俺の前には現れないと思っています」
「球団としては、親父さんの蒸発は公にしたくないらしい」
「でしょうね。何もメリットがないですし」
「だがな。お前が警察に捜索願を出すのを止める権利はないはずだ。
それでも球団からの圧力が掛かった時は、俺が……」
「大丈夫ですよ。起用法の件もそうですが、監督は俺に気を遣い過ぎです。
一選手として扱って下さい」
「実際、それだけ追い込まれてるだろう? 無理はするな」
「ありがとうございます。……でも、警察に相談するつもりはないんです」
「でも、お袋さんも親父さんを心配……
ああ、お前、お袋さんは昨年亡くしていたか……」
島田は大きく嘆息し、体を再びソファに預けた。
彼の気遣いは嬉しいが、父の件はもう割り切っている。
高橋の父は町工場を経営していたが、福岡コンドルズに入団した当時、工場は資金繰りが限界になっていた。いつも優しい父を助けるのに躊躇はなかった。億を超える契約金は全て父に回し、ジャガーズへの移籍も金銭を理由に決めている。
四年十六億は分割して振り込まれる。それを生活のアテにして、貯金の大半を父に回したのだが、父はそれを手にするや否や、事業を捨てて蒸発した。大金を前にして目がくらんだのだろうか。あるいは、母を亡くしたショックでおかしくなったのだろうか。
今となっては、答えは分からない。興味もない。
ただ、誰の為に働けば良いのか分からなくなっただけだ。
それに、今は父の件よりも悩んでいる事がある。
その感情を吐露できれば、少しは楽になるだろうが、島田には相談できない。
監督という重責を背負っている彼に、必要以上に心配をさせたくないのだ。
「とりあえず、お前の気持ちは分かった。……今日はゆっくり体を休めてくれ」
「はい。失礼します」
監督室を出て、一人廊下を行く高橋の足取りは、ベンチを出た時とは対照的に弱弱しい。
ロッカールームに戻ると、鞄の中から電子音が聞こえてきた。大学時代の球友からのメールだった。
沖精一。今は福岡で私立探偵として働いている変わり者である。
メールの内容は『福岡遠征の際に飯でも行こう』というものであった。
懐かしさに胸を締め付けられながら、高橋は即座に了解の旨を返信した。
◇
福岡での初戦は散々な結果に終わった。
高橋はまたも無安打に終わり、チームも完封負け。
ファンのフラストレーションを更に高める惨敗である。
試合はデイゲームで、高橋が自由の身になったのは午後六時だったが、彼はサングラスをかけてホテルを出た。
『大金に目がくらんで移籍した裏切り者』
福岡コンドルズファンの中には、高橋をそう評する者もいる。
だというのに、我が物顔で街を歩けば、どんな罵声を投げかけられるか分かったものではない。せめて、隠すのを惜しむ顔付きではなくて良かった、と思う事にした。
沖とは、天神駅周辺で午後七時に合流し、その後中洲に行く予定だった。
だが、天神に向かう途中で『少し遅刻する』と、沖からのメールが届いている。
先に天神に着いた高橋は、時間を潰すべく、大型書店で文庫小説を一冊買った。
あとは腰を落ち着ける場所を探すべく、辺りをきょろきょろを見回しながら書店を出たところで……下半身に軽い衝撃を受けた。
「おっ、と……」
「きゃっ!?」
足元を見ると、十歳くらいの少女が尻餠を付いている。185cmの高橋の視界に入っていなかったのだろう。
サングラスを外し、慌てて手を差し伸べたが、少女は自力で立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、よそ見していました」
「いや、よそ見していたのは俺の方だ。怪我はないかい?」
「なんともないみたいです」
「無理してない? どこか痛むなら、家まで一緒に……いや、それはマズいか」
「家もすぐ近くですから、一人で帰れますよ」
少女は大人びた喋り方でそう言いきった。
なかなかしっかりした子だし、どうやら、本当に心配無用のようである。
高橋は安堵の息を漏らしながらも、ポケットから名刺入れを引っ張り出し、中身を少女に手渡した。
「了解。じゃあ、せめて名刺を渡しておこう。
後から痛みが出たら、ここに連絡するようご両親に伝えてくれるかい?」
「ありがとうございます。ええと……高橋典孝さん、ですね。
大阪ジャガーズ所属……? これってもしかしてプロ野球チーム……」
「……そうだよ。もしかして、俺を知ってるかい?」
周囲には他の客も多い。彼女だけ聞き取れる程の小声で尋ねる。
「プロ野球の事はあまり知らなくて……ごめんなさい」
「構わないよ。むしろ知らない方が嬉しいからさ」
「はあ……」
「いや、今のは気にしないでくれ。とにかく、何かあれば連絡してね」
「分かりました。色々ありがとうございます」
少女は一度頭を下げた。長い黒髪がふわりと肩に乗った。
高橋も返礼し、少女に背を向けて歩き始めたが……
数歩進んだところで、再び声を掛けられた。
「あの、高橋さん」
「うん……?」
振り返ると、少女は不安げな表情で自分を見上げていた。
むしろ心配しているのは、こっちの方なのに。
……高橋のそんな考えは、次の瞬間には消し飛んでしまった。
「高橋さん……
プロ野球選手を辞めて、ファンから逃げ出したい、って考えていますよね?」
「え……っ?」
電流が、全身を駆け巡る。
それは、誰にも話した事のない本当の悩みだった。
自宅車庫のシャッターに『辞めろ』等と落書きされたり、ファンレターを装って人格を否定するような手紙の届く日々。プロ野球選手であれば、ヤジは付き物だと理解はしている。しかしその域を超えた犯罪行為に、高橋は恐怖心を覚えていたのである。
こんな思いをするのは、十年間のプロ野球生活で初めての事だった。
しかし、この少女は何故それを知っているのだろうか。
思いもよらない言葉にただただ唖然としていると、少女は顔を伏せるようにして、書店横に伸びている細道の方を向いた。
「私の家は、あの細道の裏にある遊山屋って旅行代理店なんです」
「旅行代理店? な、なんの話を……」
「遠くへ現実逃避したくなったら、いつでも来て下さい。
義父が……天津さんが、歓迎すると思います」
少女はそれだけを言い残し、細道の方へと駆けていった。
だが、未だに事態を飲み込めない。後を追って詳しい話を聞こうとも思ったが、メール受信のアラームが高橋の足を釘付けにした。
『着いたぞ! 天神駅のモニター前にいるから、はよ来い!!』
文面を確認した後で顔を上げれば、もう少女の姿は見えなくなっている。
高橋は首を傾げながらも、足を天神駅の方へと向けた。