其之七 -制約-
「波戸君、明日のお客さんの送迎なんだけど……」
「空港の到着時間ですよね。全部リストアップしてます。
当日は俺が車を出しますから、任せて下さい!」
板垣の問いに、待っていましたと言わんばかりの返事をする。
それを気持ち良く感じてくれたようで、板垣は満足げに頷いて席から立った。
――あれから、一週間が経っている。
病欠した土浦の代わりに働いた日は、実に忙しかった。
だが、その選択を板垣は評価してくれたようで、あれから事ある毎に、自分を信頼して仕事を振ってくる。これに応え続ければ、彼の言っていた支店補佐を任されるかもしれない。笹部とは違う未来が、拓けようとしているのだ。
ただし、天津との制約だけは気がかりだ。
この一週間、天津からのアクションは何もなかったが、制約に反したかどうかを知る方法が彼にあるのだろうか。
仮に知られたとしても、堂々と対応しようとは思っている。
制約を破ったのは、未来を拓きたいだけではなく、人助けの側面もあったのだ。
「最近、なんだか随分頼もしくなったね」
「そんな。まだまだですよ」
「いやいや。これからも期待してるよ。じゃあ、お先。戸締り宜しくっ!!」
板垣は大声で挨拶をして、事務室から出ていった。
近くに空き巣が潜んでいても、その声が十分戸締り代わりになった事だろう。
彼を追う視線を窓の外に向けると、もう陽は完全に落ちている。
いつもなら自分も既に帰宅しているのだが、今日の仕事はまだ残っていた。
棚から書類を取り出し、一枚一枚内容を確認して、問題と思われる個所を修正していく。
その作業が、半分ほど終わった時だろうか。
……波戸のデスクに、不意に人影が差したのは。
「制約を――」
「……っ!?」
「制約を、破りましたね」
聞く者を凍てつかせるような、鋭い声。
ブリキ人形のように、がくがくと振り返れば……
逃避屋・天津鞍馬は、そこに立っていた。
「あ、天津さん! どうしてここに……」
「土浦さんが体調を崩されたと聞いて、アフターケアで来たのですよ」
「そ、それだったら土浦君は復調したよ。今日はもうアパートに……」
「もちろん分かっています。
先に会って、色々と話してきましたから。それより……」
天津が、音もなく近づいてくる。
一本縛りの長髪が、窓からの風で不気味に揺れた。
その行為に、全身が凍てつくような恐怖を感じる。
次の瞬間、波戸は反射的に頭を下げていた。
「ご、ごめん、天津さんっ!」
「……ほう」
「多分、店長から聞いたんだよね。休日出勤したって。
……だったら、事情も分かっているよね。
他にどうしようもなかったんだ!」
迷いなく、そう言い切ってしまう。
頭の中で、何度かシミュレートした言い分だった。
「あのままじゃ、当日はお客さんを迎えられなかった。
それに俺が出勤しなきゃ、土浦君だって自責の念に駆られたと思う。
……もちろん、制約を破ったのは俺だよ。それは本当に悪いと思っている」
「なるほど、人助けだった、と?」
「それだけじゃない。俺は生まれ変わりたいと思っているんだ。
真面目に働いて、人間らしく生きたいと思っているんだ。
……その気持ちだけは、分かってくれないか?」
「……そうでしたか」
そう言いながら、天津は足を止めた。
声の調子は変わらないようだが、どうだろう。
波戸が頭を上げると、彼が胸ポケットから扇子を取り出したのが目に入った。
「事情は分かりました。総じて、情状酌量の余地があると仰いたいのですね」
「それは、まあ……」
「……忘れましたか? 私は、情に訴えられるのが嫌いなのです」
天津の手のひらで、扇子が強く打ち鳴らされる。
彼は、まるで罪人でも見るような目つきをして、近寄ってきた。
「不遇を自慢するように語る輩、人の弱みを突いて我を押し通そうとする輩、庇を貸したら母屋を取ろうとする輩……こんな者達がのさばっていると思うと、実に気分が悪いですね」
天津は、なおも扇子を手のひらに打ち付けながら言う。
その度に木製の仲骨が、じゃら、じゃら、と天津の機嫌を代弁するかのように雑音を立てた。
「そ、そんなつもりじゃ……」
「私の怒りを抜きにしても、貴方の件に限っては、そもそも自業自得です」
「俺のせいだって? 一体何がだよ」
「はい。土浦様は体が強くない。特に腹を下しやすい体質でしてね」
「それは、土浦君の自業自得って事だろ。俺とは関係ない!」
「いえ。あるのですよ。土浦様は貴方の料理で腹を下したのですから、貴方が責任を取るのは当然の事。結果として制約を破らざるを得なくなったとしても、知った事ではありません」
「なんで俺の料理が原因と言いきれるんだよ!
何も知らないだろ、あんた!」
気が付けば、部屋中に響くような大声を出していた。
代償を支払いたくない気持ちだけではない。
彼の決めつけに、波戸はプライドを傷つけられていた。
怒りが全身を駆け巡るのが自覚できたが、抑えられなかった。
「それが、他には考えられないのですよ。
……土浦様が、いつもミネラルウォーターを用いていたのはご存知でしょう?」
「知ってるよ! だからなんだ!」
「ご存じありませんでしたか? 沖縄の水は硬水です。
合わない人にはとことん合いません。肌荒れを起こしたり、腹を下したりはよくある事で、土浦様もそのような方なのです。水が合わないとはよく言ったものですが、沖縄の場合、文字どおりなのですよ」
「はあ……? 俺の食事で振舞った水が悪いってのかよ……」
疑問を口にはするが、強い口調ではない。
その分野の知識を持ち合わせていない為だ。
沖縄は好きだが、沖縄の生活事情については無知に等しかった。
「それに、貴方という人間に対しても、同情はできません」
「……喧嘩売ってるのかよ」
「そう思われても仕方ないでしょう?
貴方は嘘をつき、他人を蹴落としてでも、自身の生活を安定させようとする人なのだから。……あるでしょう? 私にまだ打ち明けていない事が」
天津が、そっと肩に手を触れながら語る。
仕草だけ見れば諭すようだったが、波戸は彼の手から電流でも流されたかのような衝撃を受け、思わず後ずさってしまった。
この男は、知っている。
自分が正社員への道を駆け上がる為に、何をしてきたのかを。
誰にも、絶対に見つからないようにしていたのに、何故……。
「波戸さん、ご存知ですか? 沖縄に移住する者は、二種類に大別できます」
「な、何の話だよ」
「まずは、沖縄を愛して移住する者。
沖縄のゆるやかな空気や自然のみならず、文化、歴史、風俗……その全てを愛し、沖縄人になりたいとさえ考える者です。
故に、彼らは積極的に沖縄へ溶け込もうとする。
それは決して容易ではありません。沖縄生活を満喫する暇等ないでしょう。
対する沖縄人も、仲間意識が強い為に最初は彼らを警戒しますが……
やがて、その熱意に理解を示し、最終的には迎え入れるのですよ」
「……もう一種類は」
「もう一種類は、沖縄の空気だけに惹かれた者です。
彼らは、自身の生活のリズムを優先するあまり、努力を放棄している。
だらだらと日々を過ごし、人との軋轢も避けて生きている。
……この方々の移住は、長くは続きません。
何も積み重ねていないから、やがて同じ価値観を持った年若い者に押し出されてしまうのですよ。その若者も、いつかは新たな若者に押し出されます。
……貴方はどちらに属するのか、もうお分かりですね?」
「ぜ、前者に決まってるだろ……」
言葉に力が篭らない。
後者の押し出しは、自分と笹部の例そのものではないか。
それに、沖縄に移住しようと思った理由までもが一致している。
だが、反論の余地は一つだけ残っていた。
「……確かに俺も最初は、後者だったかもしれない。
だけどな、俺は生まれ変わったんだ!
人間は働かなくちゃいけないと思えるようになった。
だから制約を破ったし、今日だって遅くまで残って働いている!」
「働いているとは、これの事ですか?」
天津の手が素早く卓上の書類にスライドする。
強烈な動揺を覚えて彼の手を制そうとしたが、その前に書類を取られた。
しまった!
やはり天津は、あの事を知っている……!
「おい、返せ!」
「顧客アンケート……。対応の良かったスタッフ欄に波戸様の名前が書かれていますが、筆跡が波戸様に似ていますね。それに、先に書かれていた文字を消した跡もある」
冷汗が、頭頂部から一気に流れ始めた。
マズい。
これを板垣に告げ口されれば、未来を失ってしまう。
「ああ、こちらは酷い。感想の本文が丸ごと土浦様の批判です。
『バイトだから許すけれど、彼が支店で主要スタッフになるような事があったら、二度と来ない』……ですか。随分と限定的な感想ですね。まるで、その可能性を潰そうとしているようにも感じられます」
「お、おい……」
「事務室に入る前に、貴方の行動を観察していたのですよ。
……なにせ、事前に土浦様から妙な話を聞いていたものでしてね。
なんでも、彼が接客したお客様が満足されたようだったのに、アンケートの評価は最悪だったとか。妙な事もあるものですねえ……」
「俺が悪かったよ。だから止めてくれ……」
「もうお判りでしょう。生まれ変わったなんてとんでもない。
貴方は、ただ自分の将来を案じているだけで、中身は変わっていません。
……それどころか、人を陥れてまで評価を得ようとしている貴方は、間違いなく後者です。非難の声を浴びたくないから、表面だけは真面目そのもので、人を欺いているのですよ」
「止めてくれって言ってるだろ……」
「現実逃避……。それ自体は悪ではありません。
現実だろうと、逃避先だろうと、本気で生きようとしない……それこそが悪しき」
「天津ぅっ!!」
言葉を遮りながら、天津の肩を壁に叩きつける。
かなり強い手応えがあったが、彼の体を気遣うような気持ちは湧かない。
いつの間にか荒くなっている呼吸を彼に浴びせながら、波戸は声を張り上げた。
「そうだ、それが俺だよ! だったらなんだってんだ!?
その細い体で何を奪うって言うんだよ。
店長にバラして俺の未来でも奪うか? それが代償なのか?」
「……ご冗談を。告げ口等しませんよ」
天津は、この状況でも慌てた様子を見せない。彼からすれば、慌てる必要がないのかもしれない。
「はぐらかすのもいい加減にしろ! じゃあなんなんだよ!」
「そのうち分かりますよ。……告げ口なんてものでは済ましません。
情に訴える上に、平気で嘘をつく。貴方は、私が最も嫌いな人種です。
相応の報いを受けて頂きます」
なんだろう。甘い香りがする。
意識が、朦朧とし始めた。
ぼやけ始めた視界の片隅で、天津が扇子を振っている。
「ほら、もうお休みなさい。
明日も仕事がありますよ? 出世したいのでしょう……?」
つまりは、安息の日々を奪うのだろうか。
やめてくれ。
働きたくない。
俺はただ、楽に生きたいだけなのに……。
そんな事を考えながら、波戸は床に崩れ落ちた。