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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File1.波戸真澄(27) 沖縄への現実逃避
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其之六 -アリとキリギリス-

 笹部の話は、波戸の心に深く突き刺さってしまった。

 海に潜ろうと、街に遊びに出かけようと、食事をしようと、楽しさを自覚するたびに、彼の話が脳裏をよぎるのだ。



 人間は、働かなくちゃいけない。

 分かっている。間違いなくその通りだ。

 それから目を逸らしてしまえば、人生の残りはなんの希望も抱けず過ごさなくてはいけない。キリギリスの末路は、幼稚園児でも知っているのだ。


 じゃあ働こう、というわけにもいかなかった。

 周囲には真面目に見せかけているけれども、本当の姿は怠惰の塊である事は、自覚している。そんな自分が沖縄に浸かってしまったからには、再起に相当なエネルギーを要するのだ。

 そして何よりも、福岡でボロ雑巾の如く働いていた頃の自分には、二度と戻りたくない。それらの気持ちが、波戸の中でせめぎ合っていた。


「……現実逃避した先で現実を知るってのも、なあ」

 力なくそう呟いて、砂浜に寝っ転がり、目を瞑る。

 瞼の上からでも眩しく感じる陽光と、その陽光を十分に帯びた砂浜の熱が、今は忌々しく感じてしまう。

 だが、陽光はすぐに遮断された。

 頭上に物陰ができたのを感じて目を開けると、板垣が立ったままで、太陽を遮るように覗き込んでいた。



「よう。探したぞ」

「店長……。すみません、もう昼休憩は終わりでしたっけ」

「まだ十五分くらい残ってるよ。

 ただ、俺はちょっと午後から出るから、それを伝えておこうと思ってな」

「今日の午後は、ダイビング客の予約はなかったと思いますけど」

「そうじゃない。土浦君の様子を見に行くんだよ」

「あっ……」

 土浦の名を聞いて、慌てて上半身を起こす。

 この日の業務が始まって間もなく、彼は腹を抑えながら気分の悪さを訴えたのである。救急車を要請する程の状態ではなさそうだったので、板垣が車で病院まで連れて行き、そのまま午前中は帰ってこなかったのだ。


「土浦君、過度の下痢らしい。今は病院で点滴を打ってもらっているよ」

 波戸のハッとした表情を見て、板垣が先に答えを教えてくれた。

「多分、入院はせずに自宅待機となるだろう。ただ、ノロウイルスの可能性も否定できないそうだ」

「下痢ならまだいいですけれど、ノロだとちょっとしんどいですね……」

「そうだね。どっちにしろ外出は困難だ。

 そこで、病院に迎えに行くついでに、食料やらを差し入れに行こうと思うんだ。……で、だね」

 板垣は腕を組むと、隣で胡坐をかいて波戸を見つめてきた。これが美少女ならば、と思ってしまうような熱視線だった。

 


「波戸君に、ちょっとお願いがあるんだ」

「はあ。なんでしょうか」

「明日は、土浦君が出勤で、波戸君は休日のシフトになっていたが……

 土浦君は出勤できないだろう。代わりに、休日出勤してくれないだろうか」

「休日、出勤……」

 瞬間、波戸の全身に電流のような衝撃が走った。

 それが何を意味するのか、もちろん波戸は忘れていない。




 ――制約と、代償。




 天津と結んだ制約に反する行為だ。

 そしてそれには……『大切なものを失う』代償がセットになっている。


「あ、あの、俺は実は……」

「頼むよ。波戸君にしか頼めないんだ。

 ……君も知ってのとおり、笹部君は近々退職する事になっている。

 そんな彼に直前で無理してもらうのは忍びない。

 俺が一人で全部こなせればいいんだが、最低二名はいないと店を回せない。

 なんとか、お願いできないだろうか」

 板垣は、悲痛ささえ漂う口調でそう告げ、深々と頭を下げた。

 だが、いくら頼まれようと、天津との制約がある為に首を縦には触れない。

「ああ」「ええ」と、言葉を濁していると、板垣は両手を合わせながら立ち上がった。

「頼む! 俺、そろそろ土浦君を迎えに行かなきゃいけないから、これで失礼するけれど……考えておいてくれよ。なっ!」




 板垣は返事を待たず、浜辺に隣接した駐車場の方へと向かった。

 呼び止めて再度断る事もできず、波戸はそのまま浜辺に残されてしまう。

「無理なのに、困るよ……」

 深い溜息と同時に、頭を横に振る。


 やはり、天津の言葉は怖い。

 一体何を失うのかは分からないが、それだけに不気味さが強い。

 加えて言えば……自身の本心としても、働きたくはないのだ。


 一方で、板垣が本当に困っているのも分かる。

 大豊不動産を経由したとはいえ、現地での逃避環境が整っているのは板垣のお陰でもあるから、なるべくなら応えたいとも思う。


 それに。

 それにだ。

 ……もしかしたら、これは自分の転機になるのかもしれない。

 キリギリスから、アリに。

 もう一度立ち上がるとしたら……今を置いて、他にはないかもしれないのだ。




「俺は……俺は……」

 碧空を仰ぎながら、声を漏らす。

 彼の手は、ゆっくりとではあったが、強く握られていくのであった。

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