其之六 -アリとキリギリス-
笹部の話は、波戸の心に深く突き刺さってしまった。
海に潜ろうと、街に遊びに出かけようと、食事をしようと、楽しさを自覚するたびに、彼の話が脳裏をよぎるのだ。
人間は、働かなくちゃいけない。
分かっている。間違いなくその通りだ。
それから目を逸らしてしまえば、人生の残りはなんの希望も抱けず過ごさなくてはいけない。キリギリスの末路は、幼稚園児でも知っているのだ。
じゃあ働こう、というわけにもいかなかった。
周囲には真面目に見せかけているけれども、本当の姿は怠惰の塊である事は、自覚している。そんな自分が沖縄に浸かってしまったからには、再起に相当なエネルギーを要するのだ。
そして何よりも、福岡でボロ雑巾の如く働いていた頃の自分には、二度と戻りたくない。それらの気持ちが、波戸の中でせめぎ合っていた。
「……現実逃避した先で現実を知るってのも、なあ」
力なくそう呟いて、砂浜に寝っ転がり、目を瞑る。
瞼の上からでも眩しく感じる陽光と、その陽光を十分に帯びた砂浜の熱が、今は忌々しく感じてしまう。
だが、陽光はすぐに遮断された。
頭上に物陰ができたのを感じて目を開けると、板垣が立ったままで、太陽を遮るように覗き込んでいた。
「よう。探したぞ」
「店長……。すみません、もう昼休憩は終わりでしたっけ」
「まだ十五分くらい残ってるよ。
ただ、俺はちょっと午後から出るから、それを伝えておこうと思ってな」
「今日の午後は、ダイビング客の予約はなかったと思いますけど」
「そうじゃない。土浦君の様子を見に行くんだよ」
「あっ……」
土浦の名を聞いて、慌てて上半身を起こす。
この日の業務が始まって間もなく、彼は腹を抑えながら気分の悪さを訴えたのである。救急車を要請する程の状態ではなさそうだったので、板垣が車で病院まで連れて行き、そのまま午前中は帰ってこなかったのだ。
「土浦君、過度の下痢らしい。今は病院で点滴を打ってもらっているよ」
波戸のハッとした表情を見て、板垣が先に答えを教えてくれた。
「多分、入院はせずに自宅待機となるだろう。ただ、ノロウイルスの可能性も否定できないそうだ」
「下痢ならまだいいですけれど、ノロだとちょっとしんどいですね……」
「そうだね。どっちにしろ外出は困難だ。
そこで、病院に迎えに行くついでに、食料やらを差し入れに行こうと思うんだ。……で、だね」
板垣は腕を組むと、隣で胡坐をかいて波戸を見つめてきた。これが美少女ならば、と思ってしまうような熱視線だった。
「波戸君に、ちょっとお願いがあるんだ」
「はあ。なんでしょうか」
「明日は、土浦君が出勤で、波戸君は休日のシフトになっていたが……
土浦君は出勤できないだろう。代わりに、休日出勤してくれないだろうか」
「休日、出勤……」
瞬間、波戸の全身に電流のような衝撃が走った。
それが何を意味するのか、もちろん波戸は忘れていない。
――制約と、代償。
天津と結んだ制約に反する行為だ。
そしてそれには……『大切なものを失う』代償がセットになっている。
「あ、あの、俺は実は……」
「頼むよ。波戸君にしか頼めないんだ。
……君も知ってのとおり、笹部君は近々退職する事になっている。
そんな彼に直前で無理してもらうのは忍びない。
俺が一人で全部こなせればいいんだが、最低二名はいないと店を回せない。
なんとか、お願いできないだろうか」
板垣は、悲痛ささえ漂う口調でそう告げ、深々と頭を下げた。
だが、いくら頼まれようと、天津との制約がある為に首を縦には触れない。
「ああ」「ええ」と、言葉を濁していると、板垣は両手を合わせながら立ち上がった。
「頼む! 俺、そろそろ土浦君を迎えに行かなきゃいけないから、これで失礼するけれど……考えておいてくれよ。なっ!」
板垣は返事を待たず、浜辺に隣接した駐車場の方へと向かった。
呼び止めて再度断る事もできず、波戸はそのまま浜辺に残されてしまう。
「無理なのに、困るよ……」
深い溜息と同時に、頭を横に振る。
やはり、天津の言葉は怖い。
一体何を失うのかは分からないが、それだけに不気味さが強い。
加えて言えば……自身の本心としても、働きたくはないのだ。
一方で、板垣が本当に困っているのも分かる。
大豊不動産を経由したとはいえ、現地での逃避環境が整っているのは板垣のお陰でもあるから、なるべくなら応えたいとも思う。
それに。
それにだ。
……もしかしたら、これは自分の転機になるのかもしれない。
キリギリスから、アリに。
もう一度立ち上がるとしたら……今を置いて、他にはないかもしれないのだ。
「俺は……俺は……」
碧空を仰ぎながら、声を漏らす。
彼の手は、ゆっくりとではあったが、強く握られていくのであった。